大河原克行のクローズアップ!エンタープライズ
顧客体験をより良いものへ――、IBMが推し進めるデザインシンキングの取り組み
2017年10月24日 06:00
「デザインシンキング(Design Thinking)はIBMそのものである。デザインシンキングなしには、IBMの経営戦略は立案できず、製品やサービスも創出できない」――。
IBM Design(IBMデザイン)のフィル・ギルバート ゼネラルマネージャーはこう切り出した。デザイナーの発想や考え方、プロセスなどの手法を取り入れることで、課題解決などを図るのがデザインシンキング。欧米の多くの企業で導入されているものだが、IBMではデザインシンキングをいち早く導入。モノづくりだけでなく、経営戦略そのものにも生かしている。
こうした、IBMでのデザインシンキングの活用は、ジニー・ロメッティ会長兼社長兼CEOの肝入りによるものだ。いまやIBMにとって「背骨」ともいえる存在になった、同社によるデザインシンキングへの取り組みについて、ギルバート ゼネラルマネージャーに聞いた。
ロメッティCEOがデザインシンキングを導入した狙い
――米IBMは2012年に、ロメッティCEOの強い意志により、IBMデザインという組織を作りました。この狙いはなんだったのでしょうか。
ジニー(ロメッティCEO)がIBMデザインという組織を作ったのは、顧客の体験を改善することが大きな狙いでした。2012年当時、ジニーは、IBM全体が顧客体験の改善にフォーカスすべきであり、その中心にデザインシンキングを置くべきだと語っていました。
顧客体験を具体的にどう変えていくのか。そこにIBMデザインという組織を設置した狙いがありました。顧客体験を改善するためには、市場の動きにあわせたスピード感を持つこと、市場でなにかが起こったら、それにあわせて変化すること、そして、アジャイルで進めるといったやり方が必要であり、そのためにはデザインシンキングを用いることが最適でした。
すばらしいデザインをするだけでなく、顧客にとって、最もすばらしい体験を提供するといった全体像から物事を考えることに、デザインシンキングを導入した狙いがあります。
私は、IBMによるLombardi Softwareの買収によって、2010年にIBMに入社しました。そして、2010年~12年にかけて、45種類の製品を担当し、そこにデザインシンキングの手法とフレームワークを取り入れながら、製品を変化させてきました。結果としてこれらの製品は、2年後にはマーケットシェアが2倍になり、業務効率は30%改善することができました。
――米IBMでは1956年に、IBMの2代目社長であるトーマス・ワトソン・ジュニア氏が、IBMデザインを打ち出した経緯があります。当時のIBMデザインと現在のIBMデザインとの考え方は異なるのですか。
いや、私は根本的に違うものとは考えていません。
ただ、1956年当時のIBMデザインとは、ニューコンシューマーイズム(新たな消費主義)の流れを見据えた取り組みでした。イタリアを訪れたトーマス・ワトソン・ジュニアは、美しいデザインの製品や店舗を見て感動し、IBMに近代的な企業デザインを持ち込みました。エリオット・ノイズを招聘(しょうへい)し、イサム・ノグチなどとチームを組み、コーポレートデザインプログラムを立ち上げたわけです。
振り返ってみますと、もともとIBMはデザインの力を理解し、デザイナーとコラボレーションする会社であり、企業のデザインは、ブランドや製品だけでなく、顧客と企業がかかわりを持つ上で重要な役割も持っていることを熟知していました。
新たなIBMデザインは、こうした経験をもとに、デザインをビジネスに用い、顧客の体験を改善することを狙っています。ブランドを表現するだけでなく、デザインシンキングの手法を企業のなかに持ち込み、どのように体現していくのか、それを、よりモダンなレベルに引き上げていくにはどうするか、ということに取り組みました。
いま多くの企業が、われわれが2012年に抱えていた課題と同じ状況に遭遇しています。世界が大きく進化するなかで、顧客体験を重視することがますます不可欠になり、デザインシンキングを働き方やモノづくりにどう応用していくのかが大切になっています。IBMは、その経験を、顧客に対する提案に活用したいと考えています。
短期的な収益よりも長期的な数字を重視
――IBMがデザインシンキングで目指した最初のゴールはなんでしょうか。
もちろん、重要な指標のひとつとして、収益を生むという点が含まれますが、短期的に収益をあげるというよりも、長期的な数値を重視しているのが特徴です。
暫定的には3段階のゴールを設定しています。ひとつは、2、3年という中期的なものです。ここでは、IBMデザインという組織に何人採用して、何人が活動し、製品としての質がどれだけ高まったのかを検証することになります。また、社内は新製品をどう評価しているのか、顧客が新製品にホジティブな評価をしているのかどうかといったことも検証します。
IBMデザインは、2013年の時点で100人のプロフェッショナルデザイナーを採用し、これを7つのチームにわけました。それぞれのチームで、デザイナーたちは製品のデザインを行うだけでなく、ビジネスを推進するチームの一員に加わりながら、市場に対して、結果を出すことにコミットする役割を担いました。
ここでは、顧客の声を聞きながら、それを製品に反映していくオペレーショナルデザインの手法を取り入れました。この手法は、市場において差別化できるものになっていますし、当時、これだけ大規模にやっている企業はほかにはありませんでした。
IBMデザインは、2014年には21チームに増加し、2015年には60チーム以上、2016年には350チームになりました。現在、IBMでは8万人の社員が「デザインシンカー」というバッジを持ち、デザインシンキングを意識した活動を行っています。
そしてデザインシンキングについては、ラインマネージャーはもとより、CEOであるジニーをはじめとするトップマネジメントまでが、トレーニングを受けることになっています。
デザインシンキングの組織は、テキサス州オースチンに本拠がありますが、ジニーがシニアリーダーシップチームを連れてきて、全員がデザインシンキングのトレーニングを受けました。もはやIBMの社員は、デザインシンキングのトレーニングを受けないとはいえない状況が作られています(笑)。
2つめのゴールは、2年目から始めたものですが、新製品の評価基準にネットプロモータースコア(NPS)を導入し、NPSによる100以上の項目から、製品やサービスを評価することにしました。
例えば、新製品が市場に受け入れられているかどうかの指標としてこれを活用しており、その数値をもとに、これまで以上に早く対策に動きだすことができるようになりました。
そして、3つめのフェーズとして、ここにきて開始したのが、市場シェアに対する評価です。評価方法についてはさらに改善していく必要があります。そして、デザインシンキングが製品やサービスの差別化にどうやってつながっているか、といったことも重視していきます。
デザインシンキング導入で変化したこと
――デザインシンキングの導入によって、社内にはどんな変化がありましたか。
いまから3年前を振り返ると、クラウドで提供される製品というのは少なく、頻繁にアップデートするような製品もありませんでした。しかし今では、IBMの製品やサービスのほとんどがクラウドに乗っていますし、大多数のものがインテグレーションできるように設計されたり、短期間にアップデートを繰り返したりしています。
こうした製品が投入できるようになった背景には、デザインシンキングの成果が見逃せません。そして、製品化に対する効率性も高まっています。この3年間で昼と夜ぐらいの大きな違いが生まれているのではないでしょうか(笑)
そして、モノづくりだけでなく、顧客に対する提案でも大きな変化をもたらしています。例えば、航空会社のキオスク端末の開発案件では、まずはデザイナーが空港に出向き、その使用状況を確認しました。
デザイナーが観察した結果、キオスク端末の機能にはそれほど問題はないが、この端末を持ってゲート間を移動するときに電源を抜かなければならず、それが低い位置にあるために、タイトなスカートを穿いている女性スタッフが移動させにくいという課題があることがわかりました。そこを改善したわけです。
プロジェクトを開始するときに顧客の隠れたニーズを知り、状況を理解し、それを共有することが大切です。現場での人の動きを見ることが、プロジェクトそのものの方向性を変えることにつながります。
また、データセンターにおいてソフトウェアをアップグレードする際に、「ユーザーがワンクリックで行えるようにしたい」というニーズが挙がってきました。これについて、デザイナーがデータセンターのオペレーターやマネージャーと話をした結果、「ワンクリックでできた方が効率的」とはいうものの、「顧客に対して、アップデートの必要性を示すこと」「アップデートの際に起こるリスクを知らせること」「システムをリブートしなくてはならないことを通達すること」などを重視していることがわかりました。
さらには、「マネージャーとオペレーターの間で共有しなくてはならないデータはなにか、といったことも重要である」という声もありました。
こうしたことに対応した結果、われわれは従来とは異なるアプローチを行ったわけです。結果として、アップデート時には、従来と比べて10~20倍の顧客が新たな製品を買いたいということになり、指標のひとつであるNPSのスコアも上昇し、収益の拡大につなげることができました。
このようにデザインシンキングの手法を用いることで、新たな働き方ができ、顧客とのやりとりも変わります。そして、デザインシンキングを社内の業務プロセスに持ち込んだことで、評価やフィードバックの手法も変わったのです。
8人のエンジニアに対して1人のデザイナーを配置
――IBMデザインによって、開発チームの編成が変わってきていますね。
IBMが開発チームを編成するときには、ダイバーシティを取り入れており、性別や年齢、国籍だけでなく、参加する社員が異なるスキルを持っていることを重視しています。
従来は、チームを編成する際、ほぼ100%がエンジニアだったのですが、いまはバランスが取れた形で、さまざまな分野の専門性を持ったメンバーが、プロジェクトの最初の段階から参加する形にしています。
また社内だけでなく、実際に利用するユーザーも開発チームのメンバーの一人ととらえています。彼らのことを、私たちはスポンサーユーザーと呼んでいます。企業内で使われる製品を利用する人たちにも、プロジェクトの初日から参加してもらい、意見を述べてもらうわけです。
確かに、後日参加してもらい意見を聞くこともできますが、実は、それでは遅すぎて、意見を反映しにくくなったということがよく発生します。発注する人ではなく、実際に使う人たちから意見をもらい、一緒に作る環境を作ることが、最適なモノづくりにつながります。
――IBMでは、プロジェクトチームの設置において、デザイナーとエンジニアを混成していますが、その比率はどんな形になっていますか。
基本的な考え方は、8人のエンジニアに対して、1人のデザイナーです。それに向けて、IBMデザインは、1000人のデザイナーを採用する目標を掲げています。これが、IBMが目指しているチームの姿です。
ただし、これは固定しているわけでありません。例えば、サービスの創出においては、コードを書く人は少なくてすみます。製品やサービスの種類、開発の段階によって、必要とされるスキルが変わりますし、そもそも構成比の比率を固定することそのものが、デザインシンキングの発想のなかでは危険です。それぞれのシーンに応じて柔軟に変更していきます。
デザインシンキングを進めると、自然と共創を進める会社へと移行していきます。共創をするにはデザイナーが不可欠です。つまり、共創の前提にはデザインシンキングがあるというわけです。
デザインシンキングを実行する際に重要な要素
――デザインシンキングを実行する際に、重要な要素はなんですか。
それには、3つの要素があります。ひとつは、測定可能なゴールを設定すること、2つめは、可視化し、透明化することです。そして、3つめには、常に改善を加えるという点です。
デザインシンキングは、顧客を理解することが大切であり、これらの3つの要素は、顧客を理解するという上で重要なプロセスです。ユーザーとの共感や、ユーザーに対する理解を常に意識し、これを繰り返すことで、最初は、顧客のことを1%しか理解していなかったものが、10%、20%へと高まっていき、高い次元へと移行することで、プロセスや成果の改善につなげることができます。そこに、デザインシンキングを導入する目的があるわけですからね。
もうひとつ、われわれは、デザインシンキングを実行する上で、「プレイバック」という手法を導入しています。
企業の組織体系は、常に最適な形であるとはいえません。伝統を持つ企業を中心に、多くの企業で起きている問題が、サイロのような「縦の組織体系」が生まれ、横のつながりが薄くなっているという問題です。
一方で、組織のサイロ化を解消するために、階層を少なくし、フラット化させ、横ぐしを指す横断的なチームを設置するといったことに取り組む企業もありますが、それが最善の回答になっているわけではありません。試行錯誤を繰り返した結果、わかったのは、どんな組織を作っても、100%完ぺきな組織はできないということです。
人間の特性として、レポートラインを持つと、上の人間がやりたいようにやってしまう傾向があります。いくらチームが顧客の声を取り入れて、早く動きたいと思っても、階層がありすぎて、その意見があがらなかったり、上司の意見に書き換えられてしまったりといったことが起きがちです。
IBMデザインでは、プロジェクトごとに「プレイバック」という場所を用意し、ステイクホルダーや専門性を持った人が参加し、それぞれが意見を持ち合い、コミュニケーションを行います。こうした場所の存在が健全な議論を生み、物事を正しい方向へと進めることにつながります。
さらに、デザインの評価だけでなく、チームの活動を診断し、チームの健康状態を評価する仕組みを用意していますし、IBMデザインが正しい機能を果たしていることを検証するために、定期的にエグゼクティブとのコミュニケーションを行い、適切な人材が投入できているかといったことを含め、透明性を確保しながら、自らを評価しています。
――経営に対する影響はどうでしょうか。経営判断や戦略立案にデザインシンキングは影響していますか?
実は、ジニーのフロアも全面的に改装し、壁をなくしたり、アジャイルに仕事ができるようにしたりしています。これによって、エグゼクティブのコミュニケーションの仕方が大きく変わっています。
IBMでは、2017年からデザインスタジオの設置を開始し、これまでに、全世界に40カ所以上のデザインスタジオを開設しました。デザインスタジオのすべてがオープンコミュニケーションを前提としています。そして、デザインスタジオにあるすべての設備は移動が可能です。重量が40kg以上のものはひとつもなく、すべてが一人の人間で動かすことができるものばかりです。
プロジェクトの種類や進行状況によって、デザインスタジオは変化します。最初にアイデアを出すときには、いすに座って作業をしていても、プロジェクトが進むに従って、いすやテーブルがいらなくなることは日常茶飯事です。デザインスタジオは、そうした変化にも対応できるものにしています。この成果は全社に広がっており、エンジニア、セールス、マーケティング、法務部門でも同様のスタイルを導入し始めています。
いまや、デザインシンキングはIBMそのものだといえます。デザインシンキングなしには、IBMの経営戦略は立案できず、製品やサービスも創出できません。いわば、事業戦略のやり方そのものがデザインシンキングになっています。
昨年の事業報告書には、「You with IBM」というメッセージを用いました。これは、全社のメッセージとしても活用していますが、その基本的な姿勢は、「クライアントと共創していく姿」を目指すことにあります。このメッセージからもわかるように、デザインシンキングは、すでにIBMそのものの一部になっています。
――IBMのデザインシンキングと、シリコンバレーのデザインシンキングには違いがあるのでしょうか。
基本的な考え方に違いはないと思います。デザインシンキングは、どんな分野に対しても応用できるものだと考えています。企業は、必ず課題を抱えています。これを解決するためには、デザインシンキングを用いることは、もはや不可欠です。そして、この手法は、地域をまたがり、拡張性を持ったものでなくてはなりません。人と現場の洞察を取り入れ、それに基づき、多様性のあるチームによって共創し、課題を解決し、企業の成長につなげるのがデザインシンキングです。IBMはそれに向けて、すでに成果をあげているといえます。
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IBMの業績は、22四半期連続減収という厳しい状況が続いている。だが、これは、「コグニティブソリューションとクラウドプラットフォームの企業」へと大きく舵を切るなかでの「痛み」ということができる。
実際、過去12カ月のクラウドによる収益は前年同期から25%増加しており、過去12カ月の戦略分野による収益は10%増の349億ドルとなり、IBMの総収益の45%に達している。
その舵の切り方は、かつてのハードウェアメーカーからサービスカンパニーへと転換したときに似ている。
そして、今回の体質転換において、重要な役割を担っているのがデザインシンキングであり、これによって、IBMは生まれ変わろうとしている。