事例紹介
SBI証券が国内株取引システムをAWSクラウドに移行、「AWS CDK」「AWS FIS」などの活用で内製エンジニアリングを強化
2024年5月16日 06:15
アマゾン ウェブ サービス ジャパン合同会社(以下、AWSジャパン)とSBI証券は4月23日、SBI証券の国内株式にかかるオンライン取引システム「Genesis」のAWSクラウドへの移行が完了したことを発表した。
SBI証券がグループ全体で有する証券総合口座数は1200万超、1日あたりの国内株式取引額は最大2兆円という、日本で最大規模のオンライン取引システムがAWSクラウド上で稼働を開始したことになる。
NASDAQ、ゴールドマン・サックス、JPモルガンなど、多くの巨大金融機関を顧客にもつAWSだが、この規模のトレーディングシステムをクラウドにリフトしたケースはグローバルでもまだ数が少なく、金融業界におけるミッションクリティカルな基幹業務の移行事例としても注目度は高い。また、プロジェクト期間が約1年4カ月という、オンプレミスに比べて半分以下である点も大きな評価ポイントのひとつだ。
本稿では国内証券会社として初の試みとなった大規模トレーディングシステムのクラウド移行を成功させた要因について、同日に行われた両社の会見の内容から検証していきたい。
プロジェクトの背景――新NISAという潮流の下で決断したオンライン株取引システムのクラウド移行
SBI証券をはじめとするSBIグループ各社は、2017年の住信SBIネット銀行による本格的なAWSクラウド利用を皮切りに、積極的にクラウドネイティブ化を進めている。今回の国内株式取引所システムの移行プロジェクトもその一環としてスタートしたもので、2022年12月にSBI証券の親会社であるSBIホールディングスがAWSを推奨クラウドプロバイダに選定、両社間で新たに締結された契約のひとつとして、SBI証券のオンライン取引システムおよび関連システムをAWSに移行する旨を明らかにした。
今回、移行が完了したのは、国内株式にかかるオンライン取引システムのフロントエンド部分だが、近い将来には外国株や投信、債券といったほかの商品や、バックエンドの業務システムも徐々にAWSに移行していく方針を示している。
プロジェクト発表から約1年4カ月という比較的短い期間で移行を完了し、無事に国内最大規模のオンライン株取引所がクラウドで稼働を開始したことについて、SBI証券 常務取締役CIO/SBIシンプレクス・ソリューションズ 代表取締役社長 助間孝三氏は「新NISAを契機とした貯蓄から投資への大きな潮流下でオンライン株取引システムをAWSクラウドに移行できたことは、ビジネス的に非常に大きな意義がある」と語る。
冒頭でも触れたように、金融業界のクラウド移行事例は毎年増加しているものの、オンラインバンキングやオンライントレーディングといったミッションクリティカルなシステムのクラウド移行はグローバルでもそれほど多くない。それでもSBI証券が国内株取引システムのAWS移行に踏み切ったのは、助間氏の言葉にもあるように“新NISA”による取引急増という大きな潮流が背景にある。
2022年11月、日本政府は家計金融資産の半分以上を占める現預金を投資につなげ、成長と資産所得の好循環を実現させるためNISA制度の抜本的拡充/恒久化を打ち出した。この政策を受け、SBI証券は2023年9月からインターネット取引における国内株式手数料を無料にする「ゼロ革命」を開始、これにより口座数/取引量ともに急速に増加し、すでに「1200万口座」「1日あたりの最大取引額2兆円」を達成するに至っている。
この潮流がさらに拡大すると確信した同社は「口座数や取引量の拡大にもスピーディに対応できるよう、(オンライン株取引の基盤となる)システムへの投資は早めに行っておくことが非常に重要」(助間氏)と判断し、国内株オンライン取引システムのAWSクラウド移行を2022年12月に発表した。
「新NISAの発表、そしてゼロ革命以後、想像を超えるスピードで市場が拡大するのを実感していた。急速に拡大する顧客基盤に対応するには、キャパシティ拡張に柔軟に対応できるアジリティに加え、さまざまなトラブルや障害が発生することを前提にした冗長構成と、より安定したシステムへと進化する強靭性が求められていたが、金融サービスとしてアジリティを備えながら成長することと、冗長性と強靭性を保ちながらシステムとして安定性を高めていくことは時にトレードオフとなりうる。そのトレードオフをテクノロジでどう解決していくかを考えたとき、強力なパートナーとして存在していたのがAWSだった」(助間氏)。
内製エンジニアリングチームの存在が、プロジェクト成功の大きな要因のひとつに
本プロジェクトの成功の大きな要因のひとつに、SBIシンプレクス・ソリューションズ(SSS)という、内製エンジニアリングチームの存在が挙げられる。同社は、SBI証券をはじめとするSBIグループ向けのシステム開発/運用を行うために設立されたSBI証券とシンプレクス・ホールディングスの合弁会社で、2023年2月に設立された。このSSSがリーダー的存在となり、約600名から構成されたエンジニアリングチームを率いて本プロジェクトにあたっている。
SSSの代表取締役社長も務める助間氏は「自社ビジネスにかかるITは(パートナー企業など)他社にすべて任せる丸投げではなく、内部に能力の高いエンジニアを有することが競争力の源泉となる。一方で金融機関である以上、安心/安定したサービスの提供は絶対に守らなければいけない。新しいテクノロジでサービスを常にアップデートし、顧客の満足度を高めていくことと、実績のある枯れた技術で安定したサービスを届けていくこと、このジレンマを解決するのがエンジニアリング力」と語り、内製エンジニアリング力を高めていくことは、SBIグループにとって重要な経営課題だとしている。
この内製エンジニアリング力を高め、より多くの優秀なエンジニアを引きつける魅力的な環境を用意するために、AWSクラウドは「極めて重要なテクノロジ」であると助間氏はいう。「売り手市場であっても良いエンジニアが集まってくれるのは、エンジニアにとって挑戦しがいのある魅力的な環境があるから。AWSクラウドの活用は、内製エンジニアリング力の強化とそれによる競争力の向上に直結している」(助間氏)。
AWS CDKとAWS Fault Injection Simulatorを活用
内製エンジニアリングチームのモチベーションに大きく影響したというAWSだが、本プロジェクトでは当然ながら数多くのAWSサービスが使われている。本プロジェクト(トレーディングシステム「Genesis」のフロントエンド移行)は、基本的にはオンプレミスからEC2インスタンスへのリフトがメインで、1000台弱のサーバーを移行した。ミドルウェアのクラウドサービスへの差し替えなどは「AWS Well-Architected Framework」にのっとってアセスメントや選定が行われている。また、AWSが無償で提供するクラウド移行支援プログラム「ITトランスフォーメーションパッケージ 2.0 for FIN」をもとに、移行コストの大幅な削減も実現したという。
そして今回のプロジェクトにおいてSBI証券の内製エンジニアリング力を強く印象付けるのが、AWSリソース(クラウドリソース)をIaC(Infrastructure as Code)で定義してリソース管理を行う「AWS CDK」と、カオスエンジニアリングでシステムのレジリエンスや堅牢性を検証する「AWS Fault Injection Simulator(FIS)」の活用だ。
SBI証券 コーポレートIT部 執行役員/シンプレクス・ソリューションズ アーキテクト推進部 執行役員 韓基炯氏の説明によれば、SBI証券では「すべての基盤をコード化することを徹底」しており、今回のプロジェクトにおいてはAWSリソースの抽象化を行うAWS CDKを採用してIaCを実践した。これによりミッションクリティカルなインフラ環境を低レイヤから容易にコード化でき、キャパシティの拡張時も短期間で設定を行うことが可能になっている。
また、Genesisでは可用性を高めるために複数のアベイラビリティゾーン(AZ)に分けて運用するマルチAZ構成を取っているが、障害時のAZ切り替えも手動ではなくAWS CDKで行っている。現在は8分程度で切り替えられているが、韓氏は「今後はさらに短縮を図りたい」としている。
また、稼働中のシステムに疑似的な負荷をかけて耐障害性を高めるカオスエンジニアリングを実践するためAWS FISを採用したという点も興味深い。韓氏はその理由として「(トラフィックの急増などで)ネットワークが使えなくなったとき、復旧にどのくらい時間がかかるのかをシミュレーションし、把握しておく必要があった。カオスエンジニアリングはオンプレミスでもできないことはないが、稼働中のほかのシステムに影響を与えずに実行することは非常に難しい。その点、クラウドサービスのAWS FISは気軽に何度も実施できる点がとてもよかった」と説明している。AWS FISで事前にシミュレーションを重ねたことで、AZ間の切り替えもスムーズにできているという。
そのほか、本プロジェクトの技術的な課題と今後の取り組みに関して、韓氏は以下を挙げている。
クラウドのコスト管理
オンプレミスは基本的に「買って終わり」だが、パブリッククラウドは従量課金なのでコスト管理が非常に重要になる。効率が良くないシステムはコスト増につながるため、去年からエンジニアも含めたチームでAWSを含めたコスト管理のあり方について議論している。
マルチリージョン化への課題
オンプレミス環境とAWSを接続する部分(Direct Connect)はマルチリージョン化できているが、それ以外はまだできていない。すべてをマルチリージョン化する必要はないが、アプリケーションの要件に応じて徐々に実現していきたい
クラウドネイティブアーキテクチャ
クラウドネイティブなインフラを使うなら、その上で動くアプリケーションもクラウドネイティブ化を進めていくことで、よりエラスティックでレジリエンスなシステムとなり、さらにコストも下がることになる。Genesisのクラウドネイティブ化はもちろんのこと、ほかのシステムのクラウドネイティブ化をよりいっそう推進していく
リトライの重要性
クラウドは何度でもリトライできるのでその良さを生かすことが重要
同じAZ内で異なるシステム間レイテンシ
AWSは膨大な数のサービスが動いているので、同一のAZ内であってもシステムによって微妙にレイテンシが異なる。できるだけスムーズに動くアーキテクチャを選択することが重要
フィジビリティの検証
オンプレミスからクラウドの移行を検討し、行けると判断して進めたあとに、想定外の事象が2回ほどあった。クラウドとオンプレミスの責任分界点の違い、つまり我々が見ることができない部分があるということを(移行するまで)把握できていなかったためで、これによって上のレイヤの変更も必要となったことがもっとも苦労した部分
開発期間の短縮
クラウドネイティブなフレームワークやツールを使ったことでアプリケーション開発期間は確実に短くなり、物理的な放棄は半分ほどに短縮された。現在、もっとも時間がかかっているのはテスト部分で、今後は自動化を進めることでさらに短くしていきたい。アプリケーションはオンプレミスで動いていたものをほぼ修正なしでビルドしてEC2上で動かしている(ビジネスロジックはEC2上)が、今後はマネージドサービスを使うことも増えるだろう
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AWSジャパン 金融事業開発本部 本部長 飯田哲夫氏は金融業界における証券領域の特徴として「さまざまなプレーヤーが市場に参加して拡大傾向にあり、さらにピーク性が高い」という点を挙げている。社会的にインパクトが大きいニュースが報道されると、その事象に関連した企業の株価は大きく動き、取引量も増大する。例えば生成AIブームで好調な業績が続いていたNVIDIAは、2024年に入ってから急速に株価が高騰し、日本を含む世界の株式市場に大きな影響を与えたが、助間氏はこうした急速な動きを“突風”と呼んでいる。
「株式市場に突風が吹いたときもすみやかに対応できるのがクラウドの最大のメリット。(NVIDIA株の高騰のように)読みきれないトレンドはこれからも起こり得るが、それに対応するにはオンプレミスだとリードタイムがかかりすぎる。金融機関としては需要の拡大にインフラが間に合わないという事態はあってはならない。また、使った分だけ支払うというしくみも、インフラの過剰投資を抑える効果が高い」(助間氏)。
「すべての基盤をコード化する」というミッションのもと、クラウドネイティブ化の大きなマイルストーンをクリアしたSBI証券だが、Genesisを移行したことで「(株式市場の)直近のトレンドに応じながら、次のトレンドに向けた準備をすることができる。AWSクラウドの選択は非常に合理的」と助間氏はその効果をあらためて強調している。
この移行で得られた知見と経験をもとに、さらなるクラウドネイティブ化を進め、予測できない“突風”にも向かっていく。