大河原克行のクローズアップ!エンタープライズ
大塚商会の創業者、大塚實氏を偲ぶ
2019年12月9日 06:00
2019年9月7日に逝去した大塚商会の創業者であり、相談役名誉会長の大塚實氏を「偲ぶ会」が、12月2日、東京・内幸町の帝国ホテルで行われた。
雨が降るなか、会場には1140人の関係者が出席。故人との別れを偲んだ。
創業時から、「世の中で、無くてはならない会社に」として取り組んできた一貫した思いを写真で振り返るコーナーや、「美しい日本を後世に残したい」として、千葉県鴨川市の棚田である大山千枚田の保存活動、益子町の陶芸を通した国際交流活動、熱海市より熱海梅園再生活動などの取り組んできた経緯を写真で紹介。
さらに、2003年に現在の東京・飯田橋に、本社を移転したあとの会長室を再現したほか、愛用していたネクタイや、自筆による社訓なども展示されており、訪れた人たちは、故人をより身近に感じることができたようだ。
米軍の調達部を相手に6400万円の商談を決める
大塚實氏は、関東大震災の前年となる1922年(大正11年)10月9日、栃木県益子町で父・大塚道太郎氏、母・のぶさんの次男として生まれた。実家は益子焼の窯元で、大塚製陶所として、一時は100人もの職人を抱えていたという。
1934年に栃木県立旧制真岡中学校に入学し、1940年には中央大学予科2年に編入。1943年12月に学徒出陣により、陸軍宇都宮連隊に入隊した。1944年5月、愛知県豊橋市の陸軍予備士官学校に入校し、門司港を出航。同年11月にシンガポールに上陸、シルサ南方軍教育隊に入隊し、1945年4月にはビルマ戦線に出征した。同年8月に終戦を迎えたが、ここでは捕虜として約2年間、収容所に入る経験もした。
1947年7月に復員し、同年9月に理研光学(現・リコー)に入社。知人の紹介で、リコー創業者の市村清社長と面談したが、「20分話しているうちに、市村さんに惚れて、ぜひ市村さんの会社にいれてくださいと頼んだ」と、大塚實氏は同社社史のなかで当時を振り返っている。
リコーでは、わずか3年のセールスマンとしての期間だったが、米軍の調達部を相手に6400万円の商談を決め、全社の半年間の営業成績に匹敵する売り上げを1人で上げてみせるといった成果を残している。
もちろん、この実績を上げたのは偶然ではない。米軍調達部とのコネがあっただけでなく、米軍が紙を大量に調達したいという情報を入手していたこと、大手紙メーカーなどとの商談で市価よりも高く購入し流通する紙を抑えたこと、米軍に対してこの価格は決して高くないと説明する話力を持ち合わせていたことなどから、この商談を成功させている。
だが、社内の派閥抗争に巻き込まれ、1951年には、リコーのライバル会社になる理研紙工業の設立に参画。フラッシュバルブの販売を行うルミナ閃光電球、三菱製紙の総代理店であった山本商会を経て、1961年7月に38歳で大塚商会を創業した。
“人に使われることはダメだと悟った”
大塚商会創業前の大塚氏は、新会社はつぶれ、入社した会社は大手電機メーカーの攻勢を受けて業績が悪化。さらに次の会社では上司との折り合いが悪く、第一線からは外されるといったことが起こり、まさに不遇の時代でもあった。
「結局は人に使われることはダメだと悟った。あとは自分でやるしかない」
それが40歳を前にして独立した理由でもあった。
独立資金は退職金と生命保険の解約分で30万円。知人から20万円を借りて独立。「大塚商会」と、社名に自らの名字を入れたのは、顧客に対する責任を明確にするためだったという。
大塚商会の創業は、東京・秋葉原の新佐久間ビル。借りた木造2階建ての2階の部屋は、約20平方メートルだった。クルマがないため仕入れ先から借りたり、タクシーで商品を運んでいたりしたという。複写機の販売実績第1号はミノルタのコピーマスターで、日電ランコという会社に納めたものだったそうだ。
大塚實氏は2011年7月に開かれた創業50周年記念式典で、「ビルマ戦線で生き残り、2年間の収容所生活をしたのちに、七転び八起きを繰り返した結果、サラリーマンとしての限界を感じたことで、生命保険を切り崩し、なけなしの30万円で創業したのが大塚商会。生涯をかけて30人程度の所帯になること、社員と社員の家族に喜ばれる会社に育てたいというのが当時の夢だった。それを実現するために『サービスに勝る商法なし』を掲げ、顧客満足度で他社と差別化しなくてはならないと考えた。いまでは、創業した時には想像もしていなかった素晴らしい会社になった」とコメントしている。
大塚氏が創業の志として掲げていたのが、「社員に喜ばれ、社員が誇りとし、社員が家族に感謝される会社」になるということだった。
「サラリーマン時代に一生懸命がんばって成績をあげても、認めてもらえないことがたびたびあった。出る杭は打たれるということもたびたびあった。そこで自分が会社をやるのであれば、正直者がばかをみるような会社にはしたくなかった。社員は戦友であり、それぞれの生活を支える上で運命を共にしている仲間である。そんな思いで、社員および家族の満足度向上に努めてきた。これは、創業の志であり、経営者としての責任であると肝に命じてきた」とする。
創業直後から、業績は着実に伸びていった。第一号支店を開設したのは1962年12月。さらに1968年には東京・三崎町に本社を竣工した。そして同年には、リコーとの正式取引を開始。この時市村社長に対して、「三年後には東京と大阪でリコー最大最強の代理店となり、完全な直売部隊として、対ゼロックス戦、対コクヨ戦に必ずや大成果をあげることを誓う」といった内容の書簡を送っている。
この手紙を読んだ市村社長は同年12月に他界したが、3年後、大塚社長の宣言通り、大塚商会は東京と大阪でリコー最大最強の代理店になった。
“電算機はやがて大塚商会の救世主になる”
1971年には、内田洋行経由でセイコーのS-301の取り扱いを開始するとともに、内田洋行が開発したUSAC300の販売を開始。オフコン事業を本格化させた。
事業を開始した当初は好調な滑り出しをみせ、主力の複写機事業にも匹敵する業績をあげたが、オイルショックによって売り上げに急ブレーキがかかり、低迷が長期化。1975年には計画達成率49.7%というさんたんたる結果に終わり、全社の大幅減益の元凶となってしまった。
これに対して、複写機事業は「風節突破コンテンツ」と呼ばれる社内臨時コンテストで、2カ月間で600台の最新複写機を販売するという成果をあげていた。こうした動きを見て、役員のなかからもオフコン事業からの撤退論が広がっていった。
だが大塚氏は、「電算機はやがて大塚商会の救世主になる。もし、いま電算機をあきらめれば、大塚商会は永遠に複写機のディーラーで終わってしまう」と考え、社内の撤退論を払拭。撤退論の急先鋒(せんぽう)だった役員を、役員として初めて組織のトップに就け、社内に本気でオフコン事業をやることを理解させた。
だがその矢先、内田洋行が独自にサポート専門会社を設立したことで、アフターサポートで収益を得ようと考えていた大塚商会と対立。その代替策として、内田洋行経由でオフコン上位製品として取り扱っていた富士通に声をかけた。だが契約条件で折り合わずこの計画もとん挫。このままでは、扱う製品がなくなるか、アフターサポートの事業をあきらめるかという二択を迫られる状況に陥ろうとしていた。
その時に、取引銀行を通じてアプローチしてきたのがNECだった。
NECは、三菱電機、東芝とともに、オフコン御三家を呼ばれていたが、技術力は高いものの販売力に課題があり、販売代理店を3倍となる30社に拡大する計画を掲げていたところだった。
大塚氏は、内田洋行との契約解消によって約7000億円という損失を被ったものの、NECと新たに契約を結ぶという英断を下し、オフコン事業を再スタート。その後、NECがオフコン市場での事業を急拡大する上で、大きな役割を果たすことになる。
このころ大塚商会では、コピー、オフコン、ファクスの頭文字を取った「COF(コフ)戦略」を推進していたが、この3つの分野をカバーするディーラーは国内にはなく、当時のOAブームの仕掛け人として存在感を増していった。
しかし、オフコン事業の立ち上げには多くの苦労を伴った。複写機の販売に強い大塚商会が、ソリューションビジネスが中心となるオフコンを売るための体制がなかなか整わなかったのが最大の理由だ。
そこで大塚氏は、自ら営業本部長としてオフコン販売の前線に立つとともに、「倍々作戦」を打ち出した。1977年の年間60台の販売を起点に、3年間に渡って倍々で伸ばし、1980年には480台の規模に拡大させるという計画だ。
オフコンでは弱小ディーラーだった大塚商会がこの分野で生き残るためには、年間500台の販売が必要であると考えていた大塚氏が打ち出したこの計画は、新規顧客への訪問拡大に加え、複写機の営業部門が顧客にオフコンのデモを行うアポイントを取れば評価ポイントが上がる、という仕組みまで導入。初年度は、年の瀬も迫ったクリスマスの日に見事に目標を達成してみせた。
倍々作戦の達成には初年度の数値達成が重要と考えていた大塚氏は、この時の社員たちの自信に満ちた顔を見て、「電算機事業はものになった」と確信したという。実際1980年には、エプソンの会計専用オフコン「EX-1」をあわせて、668台のオフコンを販売し、計画を大幅に上回る形で倍々作戦を完遂してみせた。
ここでは、販売、財務、給与ソフトとして人気を誇った独自のアプリケーションソフト「SMILEシリーズ」の前身となるソフトウェアの開発も貢献している。
オフコンの次はPCに着目
オフコン事業を軌道に乗せた大塚氏が次に着目したのがPCだった。
1981年7月に行われた創立20周年式典において、ニューCOF戦略を発表。PCとワープロ専用機の取り扱い開始を正式に表明し、同年、神奈川県横浜にオープンした自社ビルの新館にパソコンスクールとOAセンターを開設。同社第1号のパソコンショップをオープンした。
この年に大塚商会に入社したのが、長男であり、現在、大塚商会の社長を務める大塚裕司氏。子供のころから、パソコン少年でもあった大塚裕司氏は、この分野に明るく、その後のPC事業を成長させる牽引役を担った。
ちなみに大塚商会では、先ごろ、エポックメイキングな4台のPCを本社1階に常設展示を開始している。
だが、かつては複写機部隊がオフコン部隊を排除しようとしたように、今度はオフコン部隊が、当時は「おもちゃ」とやゆされたPC事業を排除しようとした。この動きは、大塚實氏にとってみれば想定したものであり、PCへの本気度を示すために、わずか3カ月で13店舗のパソコンショップをオープンするなど、大胆な手を打っていった。
象徴的な存在が、東京駅八重洲口正面にオープンした大塚OAセンター八重洲であった。「大塚商会の新しい姿を多くの人に見てもらうための拠点」と位置づけ、PCの販売とプログラミング学習の拠点として多くの人が訪れた。
1984年第4四半期には、PCがコピーやオフコンの売り上げを上回り、完全な主役に躍り出て、“大塚商会といえばPCのイメージ”が、その後広く浸透していくことになる。
その後、大塚氏は、オフコン部隊とPC部隊の融合をはじめとする大胆な組織改革を行ったほか、PC-LAN事業やウェブ事業、サプライ販売事業といった新たな取り組みも開始。顧客をワンストップでサポートする仕組みを用意するなど、時代の変化をとらえた施策を次々と打ち出しながら、次期社長にバトンを渡す準備も進めてきた。
大塚商会は2000年7月に東証一部に上場したが、この時大塚實氏は、競合他社が相次いで上場し、厳しくなる企業競争を勝ち抜くためにも上場が必要であったこと、さらには、上場によって社会評価を高め、社員が誇りと自信を持てるような会社になることを考えた結果の上場であったことを明らかにしている。
創業40周年を迎えた2001年8月に、大塚實氏は、78歳で社長の座を退き、大塚裕司氏に経営を託し、会長に就任した。
また、2004年3月には代表取締役を退き、相談役名誉会長に就任。近年は体調を崩し、療養していたが、2019年9月7日に老衰のため逝去した。享年96歳だった。
【お詫びと訂正】
- 初出時、創業100周年としておりましたが、正しくは創業40周年となります。お詫びして訂正いたします。
業界への貢献では、1998年に社団法人「日本コンピュータシステム販売店協会」会長に就任。2002年には、情報化促進貢献者として「経済産業大臣賞」を受賞している。
そのほか自然保護活動などにも積極的で、鴨川市の大山千枚田保全、真岡高校の施設保全、千代田区の日本橋川保全活動、益子町の陶芸を通した国際交流活動、熱海市より熱海梅園再生活動などにおいて、それぞれ「紺綬褒章」を受章している。
出身の益子町の名誉町民でもあり、2004年には益子焼・人材育成支援の「大塚実基金」を設置し、2億5000万円を寄付している。
亀の歩みは兎より速いことを知れ
大塚實氏は、数多くの語録を残している。
大塚氏自らが最大の信条とするのが、「亀の歩みは兎(うさぎ)より速いことを知れ」という言葉だ。
社訓のなかにも盛り込み、リコーとの取引を開始した際に、リコーの市村清社長にあてた書簡のなかでもこの言葉を引用している。
この言葉は、よく知られる兎と亀が競争するおとぎ話からとったもので、足の遅い亀が、足の速い兎に勝つことができたのは、亀は一歩一歩確実に脇見をせずに目的に向かって最短距離を歩いたことが理由だとし、「自分が目標に向かってベストを尽くしているのならばそれでいい。雨の日も、風の日も、天気がいい時も、寄り道をせずに目的に向かって一歩ずつ歩み続けることが大切である。弱者でも強者に勝てる」と語っていた。
そしてここでは、こんな表現もしていた。
「おとぎ話では兎が油断をして、昼寝をしていたから負けた。なかには、昼寝をしなければ兎が勝てたという人もいる。私は、兎という生き物のなかに昼寝をせざるを得ない必然性を抱えているのだと思っている。これは、慢心と油断というエラーを攻められたものであり、ビジネスの世界でも多々あることだ。いかに優良な企業でも大きなエラーを犯し、それを突かれたら見る見るうちに敗退する。大事なのは自分でエラーを犯さないこと。そして、競合会社がエラーを犯したら、そこにグッと攻め入ることができる体制を常に取っておくことが大切である」。
なお、この言葉を最大の信条にしていた理由については、「自分の半生で身に染みて感じていたから」とし、「若いころからうぬぼれが強くて自信家だったため、半生は浮沈の連続。その反省から兎ではなく、亀の歩みに徹しようと考えて、肝に銘じた」と語っていた。
もうひとつ、大塚氏が肝に銘じた言葉としていたのが、「諸悪の根源、我にあり」という言葉だ。
「人間はついつい自分に甘くなりがちで、自分にかかわる問題が起こると、自分の非を問わずに、社会のせいにしたり、会社のせいにしたりする。相手のせいにする前に、その相手にどうしてあわせられなかったかと自分を反省すべきである。私は、決して人のせいにはしない。どんなことでも、自分が関係したことで何かまずい結果が出た時には、最低50%は自分の責任だと思う。注文が取れなくてよそに取られた場合に、それは製品が悪いから、値段が高いから、なにかが悪いからだというように転嫁してはいけない。やっぱり自分がどこか足りなかったんだと反省しなくてはならない。少なくとも、大塚商会で働いている人のなかに、責任を転嫁して自分は怠ける人をなくしたい」と語っていた。
また、「困難を味方にする」という姿勢も大塚實氏ならではの考え方だった。
「人手不足やインフレ、不況といった困難は難題ではあるが、自他ともに、平等に降りかかるならば、それは真夏の炎熱、厳冬の酷寒と同じであり、考え方次第では、夏の冷房機器、冬の暖房機器と同じ。困難を逆に利用できる」との例を示しながら、「困難は耐え忍ぶだけではいけない。困難は進んで味方にするべきもの。また、困難を言い訳の種にしてはいけない。困難を人より先に解決すれば、それが最有力の武器になる。ひとたび味方にしたら、これほど強力な味方はない」と語る。
「十分な備えを怠り、慌てて薄着で飛び回っても、かえって傷を深くするばかり。十分な備えをしていれば、困難は少しも苦にならず、逆に困難を味方にできる」というわけだ。
こうした姿勢は、大塚氏が自ら語る意外な側面に直結する。
「世間では私のことを攻撃的な男とみているようだが、私は自信よりも、不安の方が強い男である。不安に思っていることについては、これでもか、これでもかと備えを固めるようにしている。取りこぼしをしないことが勝ちに通じる。この発想自体が、私の生き方、人生観そのものである」
大塚氏は幹部に対して、「病的なまでに不安感を持ちなさい」と言ってきた。それは自らが病的なまでに不安感を持った経営をしてきたことを示す言葉でもあった。
「水平線のむこうに一点の雲が出たら、いい天気だと思うのではなく、その雲が発達して、暴風雨になってやってくるかもしれないと不安感で受け取る。それを調べて、暴風雨になることがわかったら、早い段階から対策が立てられる。雲はいたるところで生まれるから、不安はいたるところにある。新聞や雑誌も、漠然と読むのではなく、なにかが起こるのではないかという不安感を持って読まないと変化の兆しを見つけ出すことができない」
病的な不安感が、大塚氏の経営手法につながっているエピソードだ。
創業時から「サービスに勝る商法なし」を掲げる
そして、大塚商会が創業時から掲げていた言葉が、「サービスに勝る商法なし」である。
「大塚商会から買ってもらったお客さまに、やっぱり大塚商会は言ったことを守った、期待した通りのことをやってくれたと言ってもらわなくてはならない。お客さまを大塚商会のファンにして、もう逃げられないくらいに思ってもらわなくてはならない。それが今日の大塚商会を作っている」と、大塚氏は語っていた。
この精神はいまでも息づいているといえる。
現在、大塚商会の常時取引会社数は28万社に達している。最初の複合機の販売から、亀の歩みで、1社1社の信頼を得て、着実に積みあげてきた数字だ。そして大塚裕司社長のもと、最高業績を更新し続け、成長を続けている。
大塚實氏は、こうした、いまの大塚商会の姿と成長力を、安心して見守っていることだろう。ご冥福をお祈りする。