大河原克行のクローズアップ!エンタープライズ

オフコン黎明期を支えた立役者の一人――、内田洋行の元社長、久田仁氏を偲ぶ

内田洋行の社長や会長を務めた久田仁氏

 内田洋行の元代表取締役社長である久田仁氏の「お別れの会」が、2020年1月20日正午から、東京・大手町のパレスホテル東京で行われた。

 久田仁氏は、2019年11月25日に心不全で逝去。享年79歳だった。

 会場には約840人が来場。交流の広さを伺わせるとともに、オフコン黎明(れいめい)期からの業界に対する貢献や、それにかかわるエピソードなどが会場のあちこちで聞かれ、故人の明るい人柄を偲ぶ様子が見られた。

2020年1月20日に開かれた久田仁氏の「お別れの会」の様子
お別れの会は、東京・大手町のパレスホテル東京で行われた
会場には久田氏を偲ぶ数々の写真が展示されていた

「システム創造型企業」へと改革する舵切り役を担う

 久田仁氏は、内田洋行の創業者、内田小太郎氏の妻である加能さんの弟であり、同社初代会長を務めた久田忠守氏の三男として、1940年4月、大阪府大阪市で生まれた。

家族との記念写真。(右から)父である久田忠守氏、兄である久田孝氏、母の緑さん、一番小さいのが久田仁氏、次兄で監査役を務めた久田成氏、姉の千枝子さん、教子さん

 1964年に米国ドレーク大学マーケティング部卒業後、同年7月に内田洋行に入社。だが、「コンピュータや半導体の商社で修業をしたい」と申し出て、1967年に設立4年目の東京エレクトロン研究所(現・東京エレクトロン)に入社し、同社の米国法人の設立に携わることになった。

米ドレーク大学に入学したころの写真
1964年に米ドレーク大学を卒業。コンピュータの講座に衝撃を受けたという
大学時代には米国の広告代理店でマーケットリサーチの仕事を経験していた(左端が久田氏)
米国での愛車はフォルクスワーゲンの「カルマンギア」だった
大学を卒業して1964年に内田洋行に入社。最初の仕事は実兄である久田孝社長(当時)の欧米視察の通訳(右端が久田氏)
東京エレクトロン時代の久田氏(右端)。大学時代に衝撃を受けたコンピュータの仕事がしたいと内田洋行を退社した

 その後、1967年1月に内田洋行に復帰。当初は、米国留学や米国勤務の経験を生かして、貿易部門に配属されたが、純国産初となる超小型電算機「USAC(ユーザック)」の販売拡大が急務となるなかで、電算機事業部門に携わり、業界に先駆けて、オフコンの全国パートナー制度を構築し、コンピュータ分野における富士通との業務提携にも尽力した。

 1978年に取締役に、1985年には電子計算機事業部長に就任。1987年からは、教育分野向けコンピュータ事業を担当するCAI推進部長も兼務した。

 そして1989年、実兄である久田孝社長の急逝により、49歳で代表取締役社長に就任した。

 社長就任後には、社会トレンドの変化をとらえて、ハードウェアとソフトウェア、サービスをインテグレートする「システム創造型企業」へと改革する舵切り役を担ったほか、1989年にはマレーシアにオフィス家具の工場を設立したり、米国最大のソフトウェアリセラーであるエッグヘッドとの合弁会社を設立したりといったように、海外に視野を向け、常に新たなことに取り組む姿勢も、久田氏の経営の特徴だった。

 そして、グループ連結経営を意識し、グループ企業の立ち上げやグループ経営の礎を作ったのも久田氏の功績のひとつだ。

1989年に社長に就任した久田氏。49歳の時だった
マレーシアの自社工場の開設でスピーチする久田氏

現場とのコミュニケーションに注力した

 取締役から一気に社長に就任した久田氏が最初に行ったのは、現場を回ることだった。当時は、事業部間のコミュニケーションが欠如していると感じたこと、自分が担当していた事業部以外の知識に乏しいこと、現場の状況を把握する必要があることなどの理由から、得意先や地方の社員と語ることを優先。365日のうち、200日を出張に費やし、全国の得意先、支店、関連工場を回ったという。

 社長在任時の1995年に発生した阪神・淡路大震災の際には、被災地のパートナーや顧客をできるだけ支援をしたいという気持ちから、被災直後にバイクに乗って現地の各社を訪問。久田氏らしい心遣いをみせた。

1995年の阪神・淡路大震災の発生直後、バイクで取引先を訪問する久田氏(白いヘルメットが久田氏)

 実は1923年の関東大震災の際、当時大阪に本社を置いていた内田洋行は、大阪で支配人を務めていた久田忠守氏が、関西経済人として、震災直後に慰問に訪れた最初の人物だったという逸話がある。70年前の出来事を久田仁氏も踏襲してみせたともいえ、現場を重視する経営者であったことが、ここからも伺える。

 また1995年に、久田氏の肝いりで開設された東京・潮見の潮見オフィスは、織田裕二さん主演の「踊る大捜査線」の湾岸署のロケ地としても使用され、当時の久田氏が「本業とは違うところで話題になっちゃって」と笑っていたことを思い出す。

 だが、バブル崩壊の影響を受けて、主力事業の一角であるオフィス家具事業が低迷。Windows 95の発売と前後してオフコン事業の減速も加わり、1997年には2年連続での赤字を計上。その責任を取って、久田氏は1998年に辞任した。

 この時、人員整理をしないという創業以来の不文律を守りつつも、管理部門の社員を営業部門に移すといった大胆な構造改革を実施。51歳だった向井眞一氏へとバトンを渡すなど、社内の若返りも果たすとともに、同族経営からも決別した。

 「もともとは内田家に子息がいなかったために、久田家が社長を継ぐことになったが、この時に、内田家に大政を奉還しようかとも迷った。だが、社員への公共性を考えて一般企業への脱皮を図った」と、久田氏は当時を振り返っていた。

 久田氏は、1998年に取締役会長に就任。2005年に相談役に退いたが、その相談役も2011年に退任していた。

 公職としては、一般社団法人日本オフィス家具協会副会長、一般社団法人ニューオフィス推進協会理事、公益社団法人日本ファシリティマネジメント協会理事、中央交通安全協会会長を歴任。交通安全功労者表彰として、緑十字金章を受章している。

 愛称はジミー。若い時の米国留学、米国勤務の経験から海外通として知られるが、趣味は銭湯、落語、漫才と、まさに日本通であった。

「発売元的専門商社」を目指した内田洋行

 内田洋行は、1910年2月、中国・大連(満州)に、「翠台号(すいたいごう)」の社名で創業。当初は、南満州鉄道(満鉄)で大量に使用される測量機器、製図用品、事務用品を専業に取り扱う企業としてスタートした。

 1917年には社名を内田洋行に変更し、1919年、大阪に本拠を移した。その後、大連に本社機能を戻した時期もあったが、1948年には東京に本社を移している。

 内田洋行という社名は、創業者である内田小太郎氏の名字と、中国語で「外国人の店」を意味する「洋行」を組み合わせたものであったが、日本では洋行の意味とされていた「大志を抱き、海外へ雄飛を図る、積極果敢で意欲的な行動」という意味を込めたものだったという。

 1919年に国産のヘンミ式計算尺の取り扱いを、1925年には特許吉野式算盤の取り扱いをそれぞれ開始しているが、これらによって、黎明期の内田洋行の基盤を日本で確立することとなった。

 成長が期待される製品の独占販売契約や自社ブランド製品の投入などにより、成長を続けた内田洋行は、アリスモス型手動計算機や邦文タイプライターなどの自社生産も開始。1953年には「マジックインキ」と「10号ホッチキス」を開発しているが、これらの製品は日本を代表する文具となっている。

10号ホッチキス(提供:内田洋行)
マジックインキ(提供:内田洋行)

 コンピュータ分野への進出は、1957年に販売開始した、カシオの世界初の小型リレー式計算機「14-A」が最初だ。だが、真空管やトランジスタ、ICへと技術進化が進むなかで、内田洋行は9年間続いたカシオ計算機との総代理店契約を解消。ICを用いたコンピュータの開発、生産に取り組み、「USAC」ブランドの製品を市場投入することになる。

内田洋行が取り扱ったカシオ計算機の世界初小型リレー式計算機「14-A」
「14-A」の銘板には「内田洋行」の名前が入っていた

 この時同社が打ち出したのが「発売元的専門商社」。1963年、商社が研究所を持つことが珍しい時代に、東京・品川に勝島研究所を開設。その後も研究施設を拡張し、自社ブランドのオールIC電卓「USAC 10B」や在庫管理機「エルコス20型」、カセットテープを内蔵し、紙芝居のように画像が現れる家庭学習機「スペリア」などを開発していった。

ウノケ電子工業との協業でコンピュータ事業に本格参入

 コンピュータ事業に本格的に参入するきっかけになったのが、石川県宇ノ気町(現・かほく市)で国産コンピュータの開発、生産を行っていたウノケ電子工業との協業だった。

 同社は、日立製作所で国産第1号コンピュータの開発に携わっていた竹内繁氏をはじめとする技術者がスピンアウトし、竹内氏の郷土である宇ノ気町に、町長や地元医師などからの出資を募って、1960年に設立した企業。1961年には第1号機となる「USAC5010」を完成させていた。ちなみにUSACは、「Unoke Standard Automatic Computer」の頭文字を取ったものだ。Uはその後、内田洋行の頭文字として説明されることもあった。

 そのウノケ電子工業は、製品開発のための資金調達と販路拡大を目指し、つてをたどって、同じ石川県出身であった、久田忠守氏が会長を務める内田洋行に協力を要請した。

 検討を開始した内田洋行は、電算機の権威であり、通産省(当時)の電子総研に勤務していた相磯秀夫氏から、今後、小型計算機の市場性があると指摘されたこと、主力取引銀行である住友銀行から、小型計算機分野に限って事業を行うのであれば支援をするとの返答を得たことで、電子計算機分野に進出することを決定した。

 1963年には、ウノケ電子工業と基本契約を締結。同社が生産する全製品の販売を引き受けることになった。第1号機の納入は、1963年の山形県酒田市の庄内計算センター。同年には、岡山県の農協経済連や東京の志村タクシーにも納入された。

 だがウノケ電子工業は、当初の販売低迷と、生産増強を図って導入した機械の不安定などによって資金難に陥り、協議の末に、株式の51%を内田洋行が取得。1969年にはユーザック電子工業に社名を変更し、開発、生産、販売体制を整えながら、徐々にオフコン市場における存在感を増していった。

 特に、1974年に発売した「USAC720」は、会計機の機能に小型コンピュータの思想を盛り込んだ製品として、高性能と低価格を両立。2年間で1000台以上を販売するヒット製品となり、それまでの電子計算事業部の累積赤字を一掃したという。黒字転換を図った記念碑的な製品でもあった。

 この時に、業種・業務別のアプリケーションを開発し、U-PACKの名称で展開していたが、1997年には「スーパーカクテル」シリーズへと名称を変えて進化。中堅・中小企業向けの基幹業務ソフトとして定着し、年商100億円未満の販売、在庫管理ソフトとしては、業界トップクラスのライセンス販売数を維持してきた。

 ちなみにスーパーカクテルの名前には、「パッケージ商品でありながら、ユーザーの要求に合わせ、SEが個別にシステムを構築するものであり、その際にSEを『バーテンダー』と称し、ユーザーニーズを的確に『シェイク(カスタマイズ)』し、新しい『カクテル(システム)』を創造するという意味が込められている」という。

 システムインテグレーターによって構成される組織を、バーテンダークラブと称していた時期もあった。

 また、ディーラー開拓にも積極的で、1965年から全国ディーラー網の構築に乗り出し、最盛期には140社の全国にディーラーを擁していた。

 久田氏は、電子計算機事業本部長時代に、ディーラー網の拡大に向けて異業種企業との提携を加速させた実績がある。例えば、コマツと組んで、全国のフォークリフト代理店への販売を強化し、行政との提携で町村役場への導入を促進。

 ダイフクとの連携では、物流工場に向けた販売を推進したほか、クルマの修理工場や温泉旅館などへの展開も、それぞれの業種に明るい異業種企業と組んで展開を行った。こうした取り組みが功を奏して、当時、国内オフコン市場のシェアでは3位のポジションを獲得したほどだった。

コンピュータ分野で富士通と提携

 話は少し前後するが、内田洋行は1972年に、富士通とコンピュータ分野における提携を発表した。

 この時、業務提携に尽力したのが久田氏であった。内田洋行に復帰して、最初の仕事がこれだったという。

 1975年からコンピュータ輸入が自由化されることが決定し、外資系コンピュータメーカーの本格参入による勢力図の変化が見込まれること、また、それに伴って、開発力や資金力が脆弱であることなどに危機感を持った内田洋行が、その打開策として選んだのが富士通との提携であった。

1972年に発表された内田洋行と富士通の提携。左が久田孝社長、右が富士通の高羅芳光社長(いずれも当時)。左奥に小さく写っているのが久田仁氏

 久田氏は米国で勤務している時に、米国におけるコンピュータの最先端情報を実兄である久田孝社長(当時)に報告しており、こうしたことも、早い段階から提携を模索することにつながったといえる。

 この提携により、富士通は、不得意としていた小型電算機をUSACブランドでカバーできるようになった一方、内田洋行にとっても、富士通の強固な販売ネットワークを通じて製品を販売できるメリットがあった。

 また、富士通の中型・大型計算機「FACOMシリーズ」の販売を開始することで、取り扱いを開始していたセイコーの卓上計算機とともに、コンピュータのフルラインアップを整えられるメリットも生まれた。

 そして富士通との提携は、USAC820において、富士通のFACOMシリーズとの上位互換を持たせるといった成果も生んでいる。

 実は、最初に話を持ち掛けたのはNECであったが、協業提案には興味を示してもらえなかったというエピソードも残っている。

 なお、ユーザック電子工業は、その後、富士通のFACOMブランドの生産拠点となり、1987年には、富士通とパナソニックとの合弁によって生まれたパナファコムと合併して、PFU(パナファコム、ユーザックから命名)が誕生した。

 現在は、富士通の100%子会社である富士通ITプロダクツとして、富士通ブランドのサーバー、ストレージなどの生産のほか、スーパーコンピュータ「富岳」の生産も行われている。

ウノケ電子工業が前身となっている現在の富士通ITプロダクツ

ソフトウェアのライセンス販売などにも早い段階から乗り出す

 さて、内田洋行に話を戻すと、1983年には初の卓上型オフコンとして、「USAC カマラード」を発売。イメージキャラクターとして、女性ボディビルダーの西脇美智子さんを起用した広告展開を行ったが、ビジネス分野のコンピュータにタレントを起用したのは、これが最初だと言われている。

 もうひとつ、コンピュータ分野において見逃せないのが、ソフトウェアのライセンス販売、およびソフトウェア資産管理サービス(SAM)にも早い段階から乗り出していたことだ。

 内田洋行は1995年、米国最大手のソフトウェアリセラーであるEgghead Softwareと提携し、エッグヘッドウチダを設立。ライセンス管理という新たなサービス事業に乗り出した。

 1996年には、米Software SpectrumがEggheadの法人、政府、教育部門を買収したことで、現社名のウチダスペクトラムへ変更。2000年には日本マイクロソフトもウチダスペクトラムに出資しており、現在は、これらの事業を継続するとともに、SAM/ITAM(IT資産管理)マネージドサービス市場まで事業の枠を拡大。「ITAM統合ライフサイクルサービス」として提供をしている。

 この提携も久田氏が手掛けたものであり、米国の事情をよく理解している同氏ならでは着目によって生まれた事業だといえる。

1995年に米最大手のソフトウェアリセラーであるエッグヘッドと合弁会社を設立(左から3人目が久田氏)

教育分野での高い実績

 一方で内田洋行は、教育分野で高い実績を持つが、その発端となったのが科学教材部の設置だ。

 1948年に昆虫採集用品を発売して、この事業を本格化している。当時は、昆虫採集ブームを引き起こすほどの人気を博した。1949年には「内田科学教材型録」を発刊。学校における科学教材や教具の販売で地盤を築いた。

 その後、視聴覚教室向けのLL装置や学校施設設備品事業に進出。1981年の新学習指導要領において、中学校での「情報基礎」、高校での「情報」といった科目が設けられることに合わせ、1984年にはハードウェアおよびソフトウェアを組み合わせたパソコン教育システム「CAI-ACE」を開発した。これは、1996年までに4000セット以上を販売したほか、Windows 95の発売以降には、小中学校向けAV-LANシステム「ecole-net」、マルチメディア対応を図った「School Collabo」、CAIとLLシステムを融合させた「PC@LL」などを製品化。教育分野のIT化に大きな貢献を果たしていった。

 1987年にCAI推進部長に兼務で就任した久田氏は、同推進部によって、社内に分散していた教育分野における開発体制を一本化するなど、CAI事業を拡大する礎を作った。

 内田洋行は現在でも、教育分野向けのプライベートイベント「New Education EXPO」を毎年開催しており、教育コンテンツ配信サービス「EduMall」の提供など、ICTやクラウドを利用した教育支援、学習支援、学校づくりのトータル提案などを進めている。教育分野は、同社の重要なビジネスの柱だ。

オフィス改革や働き方改革を率先して導入・提案

 このほか久田氏は、1981年には、DOA(ドア)と呼ぶ新たな概念を提唱している。

 DOAは、デザイン、オフィス、オートメーションの3つの頭文字を取ったもので、生産部門のなかで唯一改善の余地を残していた研究開発部門の効率化を目指す「デザインオートメーション」、単純事務作業を自動化して効率化する「オフィスオートメーション」、人間尊重型オフィスづくりを目指す「オフィスデザイン」で構成。OAによる生産性向上にとどまらず、快適なオフィス環境を提供することで、創造性豊かなオフィスの実現に向けて、ウチダがDOA(扉)を開くという考え方を示した。

 いまの「働き方改革」やデザインシンキングなどに代表される「創造的な働き方」を、約40年前に提唱していたともいえる。

 この概念の提唱にあわせて開催したセミナーでも、久田氏の手腕と先見性が伺われる。

 1981年に開かれた第1回のセミナーでは、「日本的ビジネス社会の将来」と題して、未来学者であるアルビン・トフラー氏を講師に招へい。1982年には、「変貌する経営者の世界」として、経営学者のピーター・ドラッガー氏を講師に招いた。

アルビン・トフラー夫妻(中央)と、アドバイザーを務めていた相磯秀夫氏(右端)、久田氏(左)
ピーター・ドラッカー氏も講演した

 そして1983年には、「しのびよる危険な潮流」と題した講演を、「ゼロ・サム社会」の著者としても知られる米経済学者のレスター・サロー氏が務めた。こうした人たちを招くことができる先見性と人脈は、久田氏ならではのものであった。

 また1989年には、知的生産性向上支援の発信基地として、本社ビル内に知的生産性研究所を設置。オフィスデザインの方法論や、マネジメントシステムに関するさまざまな研究成果が発表され、その取り組みの結果、オフィス空間での人間性の回復、サテライトオフィスなどによる組織の分散化、創造的生産性を支援する上でのデザインの重要性などを盛り込んだ「フレキシブル・ワークプレイス」を提唱している。

 1988年から約1年間に渡り、埼玉県志木市でサテライトオフィスを開設して社員を勤務させたり、熊本、安曇野、ニセコ、八ヶ岳、千曲川にリゾートオフィスを開設したりといった取り組みも行っている。発起人会社の1社として内田洋行が参画した1991年設立の日本サテライトオフィス協会は、現在、テレワーク協会へと改称。働き方改革の推進における中核的な団体となっている。

 オフィス改革や働き方改革を率先して導入し、提案していったのが久田氏だった。

ユニークな発想の持ち主

 アイデアマンであり、ユニークな発想の持ち主であった。

 80周年記念イベントの際には、久田氏の発案で、7人の役員が七福神に扮し、大漁旗に乗って登場した。これは、いまでも伝説のイベントとなっているとのことで、この時社長だった久田氏は大黒天に扮してみせた。

80周年記念イベントの際には、久田氏の発案で、7人の役員が七福神に扮して、大漁旗に乗って登場。社長だった久田氏は、大黒天に扮した(右から3人目が久田氏)

 さらに社長時代には、自らを模した貯金箱「ヒトシ君人形」を作った。

 TBS系クイズ番組「世界ふしぎ発見」では、司会者である草野仁氏を模した「ヒトシ君人形」や「スーバーヒトシ君人形」が登場するが、これに倣って、久田仁氏も「ヒトシ君人形」を作り、社員に配布した。表彰された社員にヒトシ君人形を配布し、これがたまっていくという仕組みも、久田氏らしいアイデアだった。

久田仁氏の「ヒトシ君人形」
「ヒトシ君人形」は貯金箱になっている

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 内田洋行は、2020年2月には創業110周年を迎える。

 2011年2月に発行された100年記念誌「百花百年」のなかで、久田仁氏は、次のように語っている。

 「当社は社是を定めていないが、当社のこれまでの歴史を振り返れば、時代の変化を察知する鋭敏な感覚と、すばやい決断力、加えて疾風のごとき行動力を兼ね備えておくべき、ということが社是になる。いま、われわれが果たして、こうした先見性と行動力を持ち合わせているかと問えば、残念ながら自信がない。こんな時だからこそ、あえて『悩め』、『苦しめ』、『知恵を出せ』と言いたい。必ず道は開けると信じている」

 常に、新たなことや困難なことに挑戦を続けてきた久田氏らしい言葉だともいえる。

 2019年10月29日、大塚商会の創業者である大塚實相談役名誉会長の社葬が、東京・築地の築地本願寺本堂で行われた。帰り際、久田仁氏と、BCNの奥田喜久男会長兼社長が目の前を通りかかった。つえをついてゆっくり歩く久田氏を、奥田氏が手を支えてエスコートしている様子が、なんともほほえましい。

 「最近、久しぶりにジミーさんに会いたいと思っていたら、ここでばったり会うことができて、うれしくてさぁ」と奥田氏。それに対して久田氏は、「もうBCNはつぶれているんじゃないかと思っていたよ」と毒舌で返す。その言葉にはまったく嫌みがない。

 「これから東京駅近くに移動して、一緒にお茶を飲むんだ」と奥田氏は言って、ゆっくり歩く久田氏とともに、会場裏のエレベーターに向かっていった。

 それを見送ってから、なぜか、「あっ」と思って2人を追いかけた。「せっかくだから、一緒に写真を撮りましょうか」

 追いついてそう言うと、2人がカメラに向かってポーズを取ってくれた。

2019年10月29日に撮影した写真。左がBCNの奥田喜久男会長兼社長

 これが最後の写真になるとは思ってもみなかった。この写真は、内田洋行の経営企画部および広報部の配慮もあり、久田仁氏の「お別れの会」でも最後の写真として掲示された。

 内田洋行の大久保昇社長は、「常に時代の先を見据えて、強い挑戦意欲を持ったリーダーであった」とし、「故人の志を受け継ぎ、いま一度、これからの時代に挑戦することを決意する」と語る。

 久田氏が業界に与えた影響は大きい。そして、挑戦するマインドを持った経営は、いまの内田洋行のDNAとして定着していることを感じる。ご冥福をお祈りする。