ニュース

SAP S/4HANAはクラウドシフトへの最初の一歩――、I-PEXが選んだ“これからの10年”を支えるクラウドERPへの道

 SAPジャパン株式会社は9日、コネクタやセンサー、製造装置などの製造/販売で知られるI-PEXが、SAPのクラウドERP「SAP S/4HANA」およびクラウド型製造実行管理ソリューション「SAP Digital Manufacturing Cloud(DMC)」の導入を決定したことを発表した。

 既存のオンプレミスのERPを全社/グローバル規模でクラウドシフトし(水平統合)、さらに現場の製造実行システムを管理するDMCの導入(垂直統合)も同時に進めることで、本格的なクラウド上でのシステム統合を目指していく。

 本稿では、同日に行われたSAPジャパンによる報道関係者向けの説明会において、I-PEX 常務取締役 技術開発統括部長 緒方健治氏が語った国内製造業が抱えるクラウドシフトへの課題と期待について掘り下げていく。

I-PEX 常務取締役 技術開発統括部長の緒方健治氏

2年間で19カ国のSAP ERP一括導入を実現

 1963年に精密金型メーカー「第一精工」として京都で創業したI-PEXは、2004年に東京・町田市のコネクタベンチャー企業だったアイペックスと合併、以後、「精密金型をルーツにもつ一貫生産コネクタメーカー」としてグローバルに事業を展開してきた。2020年8月、「ブランド名(アイペックス)と会社名(第一精工)が異なるのは顧客にとって不都合なことが多い」(緒方氏)という理由から、社名をI-PEXに変更。現在は全グループ企業をあげてグローバルでのブランド認知拡大に努めている。

 同社が最初にSAP ERPの導入プロジェクトを開始したのは2008年2月のことで、国内6工場および海外7拠点を一斉にシングルインスタンスに統合、2年後の2010年にはさらに海外4拠点を統合し、2年間で主要7カ国/11法人/19カ国の一括導入(ビッグバン導入)に成功している。当時の導入パートナーだった三菱電機インフォメーションシステムズ(MDIS)は、グローバルな経営基盤を1クライアント1インスタンス、しかも顧客標準テンプレートのロールアウトにより短期間で構築した実績を認められ、SAPがパートナー企業に贈る「SAP AWARD OF EXCELLENCE 2010」を受賞している。

I-PEXのシステム導入の変遷。2008年のビッグバン導入は国内外の拠点をシングルインスタンスに統合するという難易度の高いプロジェクトだった。その後も時代の流れに応じて随時、システムを成長させてきている

 ビッグバン導入から約10年が経過し、連結子会社も含めグローバルで21社をシングルインスタンスERPで運用してきたI-PEXだが、10年という歳月は組織にもテクノロジーにも変化をもたらす。組織側では旧アイペックスの販社を吸収合併するなどの再編が進み、テクノロジーにおいてもパブリッククラウドの台頭やビッグデータ活用、AI/IoTの普及など新しいトレンドが続いている。

 また製造業の世界では、ドイツに端を発した「インダストリー4.0(Industry 4.0)」というスマートファクトリーに象徴されるデジタル化のニーズが急速に拡大し、製造プロセスやエンジニアリングに大きな変化が起こり始めていた。

 一方、製造業に数多くの顧客を抱えるSAPも、インメモリデータベース「SAP HANA」のリリース(2010年)をきっかけにクラウド化への劇的なシフトを図っており、2015年には次世代ERPとされる「SAP S/4HANA」をリリース。現在はS/4HANAをビジネスのデジタルコアに据え、顧客のデジタル化を支援する「RISE with SAP」を強力に推進している。

SAPが現在グローバルで進める「RISE with SAP」は、クラウドERPをコアに据えた包括的なデジタルトランスフォーメーションを支援する

 SAPジャパン バイスプレジデント エンタープライズビジネス統括本部長 平石和丸氏は「ERP導入の顧客から引き合いはここ5年ほど、非常に強くなってきているが、20年前の“2000年問題(業務改善を伴わない拙速な基幹システムの刷新)”や脱ホストといった流れとは様相が大きく異なっている。現在はデジタルトランスフォーメーション(DX)を進めるにはコア業務の自動化が必須と認識している企業が多く、RISE with SAPはそうした企業に対してERPのクラウドシフトなどを支援していく」と、RISE with SAPの背景を説明した。

SAPジャパン バイスプレジデント エンタープライズビジネス統括本部長 平石和丸氏

 2020年9月の矢野経済研究所の調査によれば、ERPのクラウド利用率は年々上昇しており、2021年は63.5%に達すると予測されている。SAPジャパンの近年の事例でも、ビッグバン導入を含むクラウドERP(SAP S/4 HANA CloudまたはSAP HANA Enterprise Cloud)の新規導入、さらにオンプレミス→クラウド移行を検討する企業はあらゆる業界で急速に増えており、この流れは2021年も継続していくことは間違いない。

ERPのクラウドシフトは業種業界を問わず、急速に進んでいる。2020年は48.4%、2021年は63.5%の企業がクラウドERPを利用するという(矢野経済研究所)
SAPジャパンの顧客もERPのクラウドシフトが急激に進んでいる。新規導入はほぼクラウドで、オンプレミスからクラウドへの移行も増えている

“ERPはパブリッククラウド上で動くべきだとずっと思っていた”

 I-PEXで現在稼働しているSAP ERPの保守期限は2027年だが、今回、同社はその期限を待たずにS/4HANAへの移行を発表した。その最大の理由として緒方氏は「クラウドシフトの必要性」を挙げている。「ERPはパブリッククラウド上で動くべきだとずっと思っていた。ようやくそのタイミングがやってきたと実感している」(緒方氏)。

 S/4 HANA Cloudは“Keep the Core Clean”という方針が徹底されている。ERPのコア部分はSAPが責任をもってメンテナンスを行い、アドオンやアプリケーションなどはAPIベースで連携させるという考え方で、ユーザーがコア部分に手を加えることは推奨されない。

 日本のERPユーザーは諸外国に比べ、過度に業務にあわせたカスタマイズ(アドオン開発)をする傾向が強く、ERP導入プロジェクトがいつのまにかアドオン量産プロジェクトに替わっていたという話も少なくないのだが、そうした極端なアドオン指向はERPのメンテナンスやアップデートを困難にし、DXを支える基盤とはほど遠いものになってしまう。コアをクリーンに維持するという思想を徹底しているS/4HANA Cloudは、「すべてのユーザーが同じモジュールを使えるようになるべき」という緒方氏の理想に近い存在だったといえる。

 加えて、コロナ禍に後押しされるように世の中のデジタル化が進む現状に、「時代が変わるという雰囲気を強く覚える。いまこそクラウドシフトすべきタイミング」(緒方氏)と、時代の流れを見定めて踏み切った部分もあるという。

 ERPのクラウドシフトに加え、I-PEXがS/4HANAへの移行を決めた理由はほかにもある。そのひとつが製造現場の最適化を図るMES(Manufacturing Execution System: 製造実行システム)のクラウド化だ。

 冒頭にもあるように、I-PEXはS/4 HANAと同時にSAPのクラウドMESである「SAP DMC」の導入も決定している。経営資源(ヒト/モノ/資金/情報)やサプライチェーンを一元管理し、組織横断的に資源を有効活用するためのシステムがERPなら、MESは製造現場の生産活動(エンジニアリングチェーン)を最適化し、QCD(品質/コスト/納期)を継続的に改善するためのシステムである。

 近年、製造業の世界では経営全体を俯瞰(ふかん)するERPと、現場情報を垂直的に管理するMESを組み合わせたシステム構築の例が増えているが、I-PEXはERPとMESを同時にクラウド化するという、一歩踏み込んだシステム構築に挑むことになる。

 同社は2018年か作業状況の可視化を目的に実験的にMESを導入してきたが、「スクラッチではなくパッケージ機能を前提に進めることで、ERPと同様にMESも標準化できるのではないかと期待している」(緒方氏)という。国内ではMES自体の導入がまだ普及していないだけに、ERPとMESの両方をクラウドシフトさせる今回のI-PEXのケースは非常に注目度が高いといえる。

今回のI-PEXのプロジェクトはERP(水平統合)とMES(垂直統合)を同時にクラウド化するといううもの。クラウド化することで新工場の立ち上げや他工場への横展開が容易になることも期待される

 もうひとつ、緒方氏がS/4HANA Cloud導入を決めた理由として挙げたのが「技術の継承」である。最初のビッグバン導入から10年が過ぎ、システムにかかわるメンバーも代替わりしていく。

 「これまでの10年を振り返り、これからの10年を考えていくと、単にシステムを変更したり引き継いだりするだけではなく、なぜその選択をしたのか/しなかったのかという議論の過程をきちんと整理し、(後の世代に)伝えていきたいと思った。プロジェクトはうまくいくこともあれば、失敗に終わることもある。それらの経験、技術と考え方を継承していくうえで、ERPのクラウドシフトは良い機会だととらえている」(緒方氏)。

これから約1年をかけてコンバージョンを進行、本番稼働の開始は2022年初頭

 ERPとMESを同時にクラウド化するという、国内製造業としては画期的なプロジェクトを発表したI-PEXだが、今回のS/4HANA導入プロジェクトは、AWSなどのハイパースケーラーではなく、プライベートクラウドをプラットフォームに選択している。これに関して緒方氏は「本当はパブリッククラウドのほうが良いとは思っている。だが現在の状態(オンプレミスで10年稼働させてきた状態)でいきなりパブリッククラウドに移行すると、さまざまな問題が生じてしまう」と語っている。

 今回のS/4HANA Cloudの採用に関しても、社内からクラウドシフトへの抵抗が少なからずあったという。だがそれでも「すべての情報をクラウドに移行することで、誰もがいつでも同じ情報をどこからでも見られるようになる。そうなれば、そこ(クラウド)に多くの情報が集めるようになる。情報でヒトをコントロールするのではなく、情報を公開することで多くの知恵を集めていく、この姿勢がこれからは重要になる」として、緒方氏はクラウドシフトを強力に推進し、今回の発表にこぎつけている。

 本番稼働の開始は2022年初頭が予定されているが、同社はこれから約1年をかけてコンバージョンを進めていくという。「正直、コンバージョンに1年もかけていいのか、という思いはある。だが今回時間をかけてデータモデルをシンプル化していくことで、次のフェーズであるプライベートクラウド→パブリッククラウドの移行はすんなりいくのではないか」(緒方氏)。

 現在、製造業も含め、多くの国内企業が業務のデジタル化を急速に進めている。しかしその反面、表には出てこない“DX失敗事例”の数も少なくない。緒方氏はそうした現状に対し、「何かをデジタル化するからうまくいく、ということはない。情報を生かすのはヒトであり、ヒトがついていけないデジタル化に意味はない」と強調する。

 日本ではERPやMES、またはIoTを導入しても省力化/自動化が改善しないというケースも多いが、緒方氏は「うまくいかないなら、一度踏みとどまって考え直す必要がある。単なる自動化では良くならない。情報が集めることで知恵が生まれ、知恵が集まることで工場設備がかわり、個人や組織の意識が変わる」と指摘する。だからこそ、デジタル化を成功させるためには“知恵の集約場所”としてのクラウド化が欠かせないのだ。

 「日本ではまだERPやMESは大げさなシステムと思われているところがある。ERP導入プロジェクトはたいてい大がかりで、2年3年かかることがふつう、費用も数億円、あるいは数十億円になることもある。S/4HANA Cloudがそうした導入自体のハードルをなくしていくことを期待している」と緒方氏。

 I-PEXの新システム稼働まであと1年弱、その先にはパブリッククラウドへの移行も視野に入れられている。これまでの10年をベースにした、これからの10年を見据えたERPプロジェクトが動き始めた。

I-PEXがクラウドERPとSAPに期待するのは「すべてのユーザが同じモジュールを使用する」「いつでもどこでも誰でも同じ情報にアクセスできる知の集約場所」という点。今回はプライベートクラウドを選択したが、パブリッククラウドへの移行も当然視野に入っている