世界中の船舶データをIBMクラウドで管理する日本海事協会

「クラウドでしか実現しなかった」壮大な事例に迫る


 一般財団法人 日本海事協会(ClassNK)は、日本アイ・ビー・エム株式会社(日本IBM)のクラウドを活用し、2010年8月に「船舶有害物質情報管理ソリューション」を構築した。さらに現在、船舶の構造情報をその船が存在する限り、管理・保管していく「アーカイブセンター」の構築を進めている。

 船舶有害物質情報管理ソリューションは、2009年に施行された国際条約「シップリサイクル条約」に基づき、船舶の作成段階から、改修などを経て解体に至るまでデータをWeb上で関係者が共有。解体作業などの際の安全を担保することなどが目的となっている。

 このシステムが好評だったこともあって、現在構築が進められているのがアーカイブセンターだ。船舶は、材料メーカー、部品メーカー、機器メーカー、造船所、船主、船員、リサイクル施設、関係国、船級協会と多くの当事者が世界中に存在する。当事者が、「船級承認に係る電子図面承認システム」、「承認用図面及び完成図面等、船舶のあらゆる図面情報の管理システム」、「シップリサイクリングに係るシステム」、「緊急時支援システム」を共有することを目指したもので、高いセキュリティが要求されるクラウドシステムとなる。

 最近では、特別クラウドであることの必然性がなくともクラウドベースのシステムが構築されているが、日本海事協会のシステムはいずれも、「クラウドでなければ、実現できなかったシステム」だという。

 日本海事協会がクラウドベースのシステムを構築しなければならなかった背景とその概要について聞いた。


海運会社、荷主、保険会社とは中立の立場を守るのが日本海事協会

日本海事協会の研究開発推進室 木戸川充彦船体部長

 「日本だけでなく、世界中に顧客を持つ我々の業務を考えると、クラウドを利用することは理にかなった、必然といえます」――日本海事協会の研究開発推進室 木戸川充彦船体部長は明確な口調でこう答える。

 最初に構築した、船舶有害物質情報管理ソリューションの場合、当初はクラウド化することを想定していなかったのだという。「IBMさんから話があった2010年4月の段階では、クラウドとはどんなものとは理解してはいましたが、実際にクラウドを利用したシステムの事例も多くない時期でした。クラウド化を提案されても、当初は半信半疑でした」と語るのは、日本海事協会 研究開発推進室シップリサイクル条約対応PTの平田純一主管だ。

 しかし現在では、冒頭に紹介した通り、「このシステムはクラウドでなければ実現できなかった」と断言する。その理由はどこにあるのか。

 「クラウドが必要になってくるのは、我々日本海事協会の業務に大きな要因があると思います」(木戸川部長)。

 日本海事協会は、1899年に設立された国際船級協会だ。船級協会とは海や川を運行する船舶が決められた設備を持ったものなのか基準を策定し、航海を行う際に危険がないのかチェックする役割を担っている。

 「船舶を持っているのは海運会社ですが、そこに荷を託すのは荷主になります。海運会社としてはできるだけ低コストで、安全に運行する船舶が必要となります。その一方で、荷主にとっては重要な自分の財産、例えば高級車を数千台単位で運んでもらうことになりますから、その船舶がトラブルなく運航するものなのか、品質を保証して欲しいという要望が生まれます。船舶協会とは、船舶の持ち主である海運会社と荷主という異なる利益を求める両者のどちらにも依らない、第三者として船舶を検査し、正しい基準に則っているのか保証する機関です。海を運行する船舶の場合、複数の国をまたがって運行することになるため、一つの国の法律ではなく、国際法に準拠して作られているのか認証する機能を持っているのが国際船舶協会になります」(木戸川部長)。

 船舶協会の歴史は古く、最初の業務を担当したのは、現在は保険会社として知られるイギリスのロイドの前進である。18世紀後半、当時経営していた喫茶店に集まっていた船舶関係者に対し、第三者機関として船舶にかける保険をかけたのが船舶協会業務の始まりとされている。

 歴史が古いことと共に船舶協会の特徴となっているのが、木戸川部長の言葉にあった、「一つの国の法律ではなく、複数の国にまたがった国際法に準拠している」という点である。世界中を航行する船舶は、一つの国の法律に準拠しているだけでは事足りず、そのため国際条約に準拠している。この国際条約をクリアした船舶に対しては証書が発行される。

 国際条約はすでに20世紀初頭から存在していた。もともと貨物を運ぶことが船舶を利用する主要目的だったために、当初は船舶の条約には救命という発想がなかったそうだ。それがかの有名なタイタニック号の沈没事件により、多くの人命が失われたことから条約の中に人命を守ることが付け加わったのだという。

 このように多くの歴史的な事件を経て現在では、(1)人命を守る、(2)海を汚染から守る、(3)航行の安全のために過積載をしない、という3点が国際条約の基本となっている。

 全世界にはこうした業務を行う船舶協会が80程度あるといわれている。同じ様な業務を行う団体ではあるが、業務内容の質には差があり、保険会社が認めているのはこのうち12程度だとされている。

 「質が高い、国際的な活動を行っている船舶協会が集まって国際船級連合という組織を作っています。日本海事協会はその議長であり、検査を行う船舶の数は世界でトップシェアとなっています」(木戸川部長)。

 船舶の場合、日本の海運業者が所有する船であっても、税金の安いパナマで検査を行うといった例が少なくない。日本の海運業者向けにビジネスを行う際にも全世界に拠点を置く必要がある。

 しかも、船舶の場合、自動車の検査とは異なり、「検査場まで自分で来て下さい」というわけにはいかない。検査ができる場所は限られていることもあって、検査を行う側が造船所に出向く必要がある。船舶検査は、造船の際だけでなくメンテナンスの際にも行われる。船舶のライフサイクルは平均的に25年から30年あり、それぞれのメンテナンスの際にも徹底した検査が行われる。

 日本海事協会ではこうした需要に応えるために、国内外に118の事務所を持つ。日本では長崎、今治といった造船所がある場所に事務所があるが、全世界の港や造船所がある110カ所以上の場所に事務所を置いている。

 「迅速に検査を行うために、主要な造船所に併設して事務所を持っています。従業員数は約1400人ですが、外国人比率が高いことが特徴となっています」(木戸川部長)。

 荷主についても、日本だけでなく全世界の荷主が対象となるため、日本海事協会としては日本だけでなく全世界に拠点を置く必要があるのだ。


シップリサイクル条約誕生でクラウドを採用

日本海事協会 研究開発推進室シップリサイクル条約対応PTの平田純一主管

 2009年、船舶業界に「シップリサイクル条約」という新しい条約が誕生した。

 「船舶は素材の90%以上が鉄、それも質のよい鉄を使っていることが多いのです。そこで寿命を終えた船舶はリサイクルされることが多いのですが、近年は解体作業に関しては人件費が安く、大きな船を解体することができるスペースを持つ新興国が、積極的に船舶をスクラップにする業務に取り組むようになってきました」(木戸川部長)。

 新興国で解体作業を行う際、問題となってきたのが、専門的な知識がないまま解体作業を行う業者が存在することだ。例えばタンクに重油が入ったまま解体作業を行う業者も存在する。

 「重油が入ったまま解体作業を行えば、当然、海に重油が流出し、海洋汚染につながります。また、作業者の身体にも悪影響を及ぼす可能性があるため、2000年代に入り、シップリサイクルをきちんと管理された状態で行うべきではないかという声が起こるようになってきました」(木戸川部長)。

 その結果、2009年になり解体作業を行う人だけでなく船舶に関わる全ての人が対象となるシップリサイクル条約が誕生した。

 造船を行う事業者は、その船舶にどういった材料が使われ、どんな有害物質が入っているのかの一覧表であるインベントリを作成することが義務づけられた。同様に、船舶を運航する事業者は、インベントリを維持、運用し、修理などを行った場合にはそれを記録することが義務づけられた。解体業者は、インベントリに則って適正な解体を行うことが義務づけられた。有害物質をきちんと処理することで、海を汚染することなく、作業員が被害に遭うことのないシップリサイクルを確立する。

 シップリサイクル条約の施行前の1年間、日本海事協会としてはどう対応していくべきかが協議された。

 「当初はインベントリを作成するためのソフトウェアを開発し、それをCD-ROMで配布する予定でいました。スタンドアロン型のソフトウェアのひな形を作成し、2008年から2009年にかけての1年間、1000件の顧客の元を周り、色々と意見を聞いていくことになったのです」(平田主管)。

 顧客の意見を聞くと、スタンドアロンのソフトウェアには否定的で、「データはWeb化して欲しい」という意見が多かった。

 「船舶に構成する素材は、おおよそ1000点に及びます。そのうち、どれが、どんな有害物質なのかをきちんと明記し、さらに改修作業を行った際には、情報をアップデートしていく必要があります。スタンドアロン型ソフトウェアの場合、『改修情報をメールでやり取りすることになるだろうが、その際、見落としなどミスが起こりやすくなるのではないか』という声が多かったのです」(平田主管)。

 そんな中、2010年4月、日本IBM側から提案されたのがクラウドベースの「船舶有害物質情報管理ソリューション」だった。

 「当時、クラウドは話題になってはいましたが、実際に導入したという事例は多くありませんでした。果たして、クラウドを利用してよいものか。当初は懐疑的でした」(平田主管)。

 しかし、協議を進めていくと、日本海事協会の業務にクラウドは適していることが判明する。

 「最初にご紹介したように、我々の顧客は全世界に存在しています。全世界のユーザーが共有できるクラウドはソフトウェアを配布して情報を共有するよりも、適していることが明らかになりました」(木戸川部長)。

 船舶は約35年の寿命を持つ。クラウドを採用した場合、ソフトウェアを配布することに比べ、次のようなメリットも感じたという。「35年後に、そのソフトのプラットフォームが利用できないようでは、インベントリを作成した意味がありません。Webベースとすることで、特定ソフトウェアへの依存するリスクを下げられることが魅力の一つとなりました」(平田主管)。

 当初は、日本海事協会内部にサーバーを置いて、管理、運営していくことも検討された。インベントリに記載されたデータは船舶所有者にとって、外部に漏えいすることを懸念する情報だからだ。

 しかし、セキュリティについて検討を進めていくと、自分たちでサーバーを管理、運営していくよりも、専門の事業者に管理、運営を委託する方が高セキュリティを実現できるのではないかという結論に行き着く。

 「船舶の世界でも、その道のプロを尊重するところがあります。ITについても、その道のプロに運用、管理を委託することのメリットを説明すると、ほとんどのお客さまが理解してくださいました。特に、パートナーとして選択したのが、世界のどこに行ってもコンピュータのプロとして認知されているIBMであったことも、スムーズに理解を得る助けになったと思っています」(平田主管)。

 その結果、協議が始まった4月からわずか4カ月でクラウド化したシステムが誕生した。具体的には、日本海事協会がCD-ROMで配布してきたインベントリ作成ソフト「PrimeShip-INVENTORY」インベントリ作成機能について、クラウドを利用したWebシステムとして構築。クラウドベースのシステムとして公開した。世界でも例がない先進的なクラウドシステムが誕生したのだ。


世界でも最高レベルのセキュリティ保ったアーカイブセンター構築中

日本IBM クラウド・コンピューティング事業の森谷明氏

 これとは別に2011年にから新たに構築しているものがある。船舶の安全な運航と非常事態対応で必要となる構造情報を船の一生にわたり保管するクラウドベースのアーカイブセンターだ。

 保管するデータは、(1)船級承認に係る電子図面承認システム、(2)承認用図面及び完成図面等、船舶のあらゆる図面情報の管理システム、(3)シップリサイクリングに係るシステム、(4)緊急時支援システム、の4つを計画している。

 こうしたサービスを提供するところは世界でも存在せず、シップリサイクル同様、世界に先駆けてのサービスとなる。

 「クラウドを選択したのは、シップリサイクルでクラウドに対する信頼度があがったことと、世界に顧客がいる、24時間、365日体制でサービスを提供するには、クラウドが適していると判断したからです」(木戸川部長)。

 このサービスに着手した背景として、日本海事協会が2011年に一般財団法人となり、提供出来る事業の幅が拡大したことがあげられる。その中で、顧客向けサービスの向上の一環としてアーカイブセンター構築がスタートした。

 「将来的にこれ以外のデータを預かって欲しいというリクエストがあれば、そういったことにも対応していきたい」(木戸川部長)と日本海事協会側も意欲的だ。

 システムを構築する日本IBMにとっても、今回のシステムは新たな挑戦となる。

 「顧客のデータを預かり、長期間に渡って保管していくサービスの提供は、中立的な立場で活動しながら業界の中核となっている日本海事協会様ならではの役割だと思いますし、大変ユニークな存在が日本海事協会様といえます」(日本IBM クラウド・コンピューティング事業の森谷明氏)。

 これまで日本海事協会では、約7000船籍、30年分の船舶図面データをペーパーで保有している。利用している建物の1フロア全てがこのために利用されているほど、膨大な量となっている。当初は、デジタル、ペーパーの両方のデータを併存するが、将来的にはデジタルに統一することも検討している。

 デジタルデータであれば、イチイチ、書類を取りに行く必要がない。クラウドであれば、全世界どこからでも、365日、24時間体制で必要な図面を取り出せるようになる。利用者にとっても、メリットがある。

 ただし、懸念材料もある。船舶の構造図などのデジタル化は顧客にとっても利便性が向上するものの、万が一データが流出することにでもなれば、造船所にとっても、船舶の所有者にとっても大きなリスクを伴う。競合企業にデータが流出することや、テロなどにデータが利用されれば、大きな被害を与えかねないからだ。それだけにシップリサイクルのインベントリとは比較にならない不安の声も寄せられた。

 「この点は、IBMさんと一緒になってお客様にセキュリティの高さを示していくしかありません。日本海事協会としては、船舶業務のプロとしてお客様がメリットを感じる提案を行う。それをITのプロであるIBMさんにサポートしてもらい、世界でもトップクラスのセキュリティを実現するという分業体制で実現していくことがベストだと考えています」(平田主管)。

 データ量としても膨大なものとなる可能性があるが、顧客ごとにデータを管理するなど工夫してシステムを運用していく計画だ。

関連情報
(三浦 優子)
2011/7/1 06:00