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SAP HANAがクラウド時代に実現するのは破壊なき破壊的イノベーション
「SAPPHIRE NOW 2014」ハッソ・プラットナー博士 基調講演
(2014/6/9 10:13)
ドイツと米国に本社を構えるSAPは、ERPパッケージというソフトウェアでもって世界中の企業ITのあり方を根底から変えた歴史をもつ。そしてSAP共同創業者で現在もSAPの製品開発において強いリーダーシップを発揮するハッソ・プラットナー(Hasso Plattner)博士は、40年前のリリース時にERPが「破壊的なイノベーション(disruptive innovation)」となってしまったことをひどく悔やんでいると振り返る。
真のイノベーションは顧客のビジネスを破壊するものであってはならない――。この長年にわたるプラットナー博士の思いを結実させた技術が、インメモリデータベースのSAP HANAだということができる。
「HANAはデータストアの方法を変えた。だがデータの定義は変えていない。したがってアプリケーションレイヤには影響を与えず、顧客のビジネスを破壊しない」――。2010年に最初のHANAをリリースして以来、ことあるごとにそう繰り返してきたプラットナー博士だが、その信念は現在も変わらないようだ。
米オーランドで6月3日~5日(米国時間)の3日間に渡って開催された、SAPの年次カンファレンス「SAPPHIRE NOW 2014」の初日、ビル・マクダーモット(Bill McDermot)CEOは新ソリューションとなる「SAP Simple Finance」を発表した。
これはSAP ERPのうち、会計業務にひもづくファイナンスアプリケーション群をHANA前提でコードリファクタリングし、SAPのマネージドクラウドである「SAP HANA Enterprise Cloud」上のSaaSメニューとして提供するものだ。現時点では正式なサービス提供開始の時期は未定だが、すでにコーディング作業のほとんどは終了しており、それほど先の話にはならないとのこと。
SAPはSimple Finance以降も、人事(HR)や顧客管理(CRM)といった業務に特化した“Simple xxx”シリーズを提供していく意向を示しているが、プラットナー博士はこのシリーズを“sERP”と称している。sがあらわすのは今回のカンファレンステーマでもある“simple”だ。HANAをベースにしているからこそERP上でデータをシンプルに扱うことができるという、プラットナー博士の40年来のメッセージが込められている。
SAPPHIRE NOW 2014の2日目、例年通りに基調講演に登壇したプラットナー博士は、ここでHANAが破壊的イノベーションでありながらも“ビジネスを破壊しないイノベーション”である理由について、『イノベーションのジレンマ』の著者であるクレイトン・クリステンセン(Clayton Christensen) ハーバード大学教授とディスカッションの形を取りながら説明を行っている。ここではその概要を紹介しながら、イノベーションとしてのHANAおよびsERPの可能性について考察してみたい。
インメモリにアグリゲーションは不要
SAPは昨年、ERPをはじめとする業務アプリケーションの基盤データベースにHANAを採用した「SAP Business Suite powered by HANA」をリリースしているが、言ってみればこれはデータベースのリプレースに過ぎなかった。だがSimple Financeは“HANAネイティブ、クラウドファーストのERP”としてスクラッチからコーディングされており、約400万行に及ぶコードの見直しが行われたという。
HANAネイティブにERPを書き換えたことで得られる最大の効果は、大幅なパフォーマンスの向上とデータ量の削減だ。プラットナー博士によれば、「データベースにDB2を採用した場合のフットプリントは7.1TBだったが、HANAに移行したことで1.8TBまで削減することができた。だが、HANAネイティブのsERPであればフットプリントは0.8TBまで縮小できる」という。
バックアップやテスト環境を用意するコストも必然的に削減できることになる。長い時間をかけて月次のバッチ処理を行う必要もほとんどなくなるという。
データベースがHANAであるならば、当然ながらインメモリでデータを扱うことがデフォルトになる。それはつまり、データモデルの定義など、データの扱いが既存のRDB時代から大きく変わることを意味している。sERPがパフォーマンスやフットプリントにおいて劇的な改善を果たす理由として、プラットナー博士は「インデックスをもたない、アグリゲーションをしない、冗長化しない」というHANAの特徴が大きくかかわっていると強調する。
特に重要な点はデータのアグリゲーションを不要としているところだ。「われわれがめざす“Run Simple”な世界に、ムダなアグリゲーションは一切必要ない」とプラットナー博士は言い切るが、クリステンセン教授もこの意見に同意している。
「現代のユーザーや市場が強く求めているのは、全体の動向や関連性よりも、個々のニーズに則した最適解。静的なアグリゲーションは、オンザフライの動的な分析やレポートには役に立たない。イノベーションに必要なのは、データのパーソナライズをリアルタイムに実現するシステム。イノベーションに成功する企業は、みな顧客のニーズをパラレルに把握しており、データに階層(ヒエラルキー)をもたせた分析をしない。アグリゲーションや階層化はユーザーと、ユーザーにひもづくジョブ(job-to-beーdone)を分断することになり、それはフレキシブルな分析の障害となる」(クリステンセン教授)。
インメモリデータベースにおいては、インデックスやアグリゲーション、レプリケーションといった従来のRDBの概念に当てはめて考えると理解がむずかしくなる。HANAにおいては、オンデマンドでアグリゲーションを実施すると、余計な手間がかかり、リアルタイム性が大きく損なわれ、プロセスの複雑化に拍車がかかるとSAPは主張する。生のトランザクションのビヘイビアから本当のインサイトを引き出すことにフォーカスしてこそ、インメモリの良さが際立つ――。プラットナー博士はこう主張する。
「われわれの言うところの“Simple”は単なるマーケティングスローガンではない。(アグリゲーションや階層化を行うことなく)データをシンプルに扱うことですべてが可能になるからこそ、シンプル化が重要なのだ。例えばPOSデータの分析を考えてみるといい。本来ならアグリゲーションなど必要ないのに、それによって処理が複雑化し、速さにおいも精度においても満足いく成果が得られない結果になっている」(プラットナー博士)。
マルチテナントはクラウドベンダの論理、顧客には関係ない
HANAに関してはもう1点、プラットナー博士が主張するポイントがある。現在のクラウド、特にパブリッククラウドにおいては、多くのクラウドベンダーがマルチテナントシステムを採用している。これに対しプラットナー博士は以前からやや否定的な姿勢を取ってきた。長年にわたって大企業向けの基幹業務システムを提供してきたSAPが、マルチテナンシーを避ける傾向にあったのは事実であり、中でもプラットナー博士は「データをすべてインメモリに載せてしまえばマルチテナントに意味はない」という考えを以前から強くもっている。
一方で、SAPは現在、買収したSuccessFactorsやAriba、Hybrisなどの技術をもとにしたSaaSオファリングを数多く提供しており、これらは基本的にマルチテナントシステムである。また、中堅中小企業向けのクラウドERPである「SAP Business ByDesign」もHANAをベースにしたマルチテナントシステムであり、HANAそのものはマルチテナントをサポートすることは可能だ。
だがプラットナー博士の基調講演およびその後に行われたプレスカンファレンスでのやりとりを聞くと、やはり同博士は「マルチテナントはクラウドベンダーのための論理であって、顧客にはベネフィットをもたらさない」という一貫した主張を崩していないように思える。
プレスカンファレンスの席上では、HANAのマルチテナント性に疑問をぶつけた記者の質問に対し、「では君はマルチテナントにどういう未来を描いているのか。顧客の環境を本当に支えると思っているのか」と強い口調で逆質問している。
また、2012年に買収したSuccessFactorsの元CEOで、買収直後はSAPのクラウド事業トップに迎えたラーズ・ダルガード(Lars Dalgaard)氏に対し、「マルチテナントを高く評価する彼の主張を、科学者としての視点からこてんぱんにやり込めた」と述懐し、報道陣を驚かせている。ダルガード氏は2013年に「家族の都合」を理由にSAPを離れているが、プラットナー博士とのクラウドにおける主義主張の違いも退職に影響したのかもしれない。
SAPは今回のsERPローンチに関し、正式リリースの日時を含め、詳細な内容の発表は控えている。マルチテナンシーのサポート状況についても多くは明らかになっていない。だが、プラットナー博士のコメントを聞くと、sERPとHANAはマルチテナントはサポートするものの、最終的にはマルチテナントを顧客に意識させないシステムにもっていこうとしているのではないかと思われる。
「クラウドにとって、マルチテナントというのはさして重要なことではない」というプラットナー博士の主張が、今後メインストリームになりうるのかに注目していきたい。
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現在、世界中に数多くいるであろうSAP ERPのリプレースを検討中のユーザー企業にとって、データベースをHANAに変更するというのは当然ながら有力な選択肢のひとつだろう。タイミングによってはクラウドベースのsERPへの乗り換えも十分に考えられる。そのとき多くのユーザーが心配するのは「今までのデータはすべて移行できるのか」「アドオンも同じように動かすことができるのか」といった点ではないだろうか。
データそのものの移行には大きな障害はそれほど存在しないように見える。だがアドオンに関しては現時点では不明瞭(めいりょう)なところが大きい。なぜなら、HANAに変わればデータのもちかたやアクセスは大きく変わるのは間違いない。それはつまり、今使っているアドオンがまったく必要のない存在になる可能性が高いということだ。
もっといえば、今までのアドオンでは扱いきれないデータ、例えばモバイルやソーシャルなど外部のデータがビジネスをメインで支えるケースがこれから増えていくということである。今までのプロセスを必要としなくなるという逆方向の変化に、ユーザー企業やパートナーがキャッチアップできるようSAPはサポートできるのか。新しいデータは新しいプラットフォーム(HANA)で扱うべきというSAPの主張をどこまで浸透させることができるのか。
プラットナー博士がいうところの「顧客のビジネスを破壊しないイノベーション」であり続けるために、HANAは今、新しいチャレンジの局面を迎えている。