歴代コンピュータを展示するTKCのIT博物館を訪ねる

創業者・飯塚毅氏の関連資料を公開する記念館も併設


 TKCは、同社のシステム開発の歴史を紹介するIT博物館を、栃木県宇都宮市に開設している。

 創業時から、同社が導入してきたホストコンピュータの歴史を、パネルなどを使用して紹介。さらに同社ユーザーである公認会計士事務所などに導入されてきた歴代コンピュータを展示している。

 さらに同博物館に隣接する形で、創業者である飯塚毅氏に関する資料を展示する「飯塚毅記念館」も設置している。

 いずれも、2011年2月に同社の創立45周年事業として完成させたものだ。2つの施設を見学する機会に恵まれた。IT博物館と飯塚毅記念館の様子をレポートする。

 

会計処理に活用された歴代のコンピュータを展示

 TKCのIT博物館は、JR宇都宮駅から車で約20分の位置にある。

 TKCが2010年9月に、ユーザーへのサポートの充実を目的として建設したITC(Innovation & Technology Center)ビルの1階部分に、IT博物館および飯塚毅記念館を設置。研究目的はもとより、地域での活用も視野に入れた施設としている。

 ITCビルは、地上5階建、延べ床面積6136平方メートルのオフィスビルで、記念館、博物館、ロビー、街路灯にLED照明を採用。環境へも配慮した点が特徴だ。

 人感センサーを採用し、人がいない場所では消灯するなどの省エネ制御を実現。事務エリアでは、センサーで明るさを検知して自動的にあかりを制御することで社員の健康に配慮しているという。また、夜間電力を使用する氷蓄熱式空調システムを採用し、CO2の削減とエネルギーコストの削減を達成しているという。

 TKCでは、ITCビルをイノベーションと最新テクノロジーの活用を通じ、同社の経営理念である「顧客への貢献」を実践する場と位置づけている。

 IT博物館は、同ビルの1階部分、51平方メートルのスペースに、同社がメーカーとの協力によって開発した歴代コンピュータや、会計事務所が導入していた数々のハードウェアを展示している。

昔懐かしいコンピュータが並ぶ

 それでは、IT博物館の様子を見てみよう。


栃木県宇都宮市のITCビルITCビルはイノベーション&テクノロジー・センターの略称ITCビルの入り口部分
IT博物館の入り口IT博物館の様子1970年当時のTKCでのデータエントリー業務の様子
リコーの「TYPER(タイパー)」。入出力装置と位置づけられる製品で、1970年に使われていたもので、印字スピードは一秒間に15.5文字と当時としては高速だった。1972年のオリベッティ Te300。著名なデザイナーを起用したとしたことで話題を集めたという
当時は紙テープでデータがやりとりされていたが、パンチミスを修正するためのキャンセルパンチというツールもあった富士通と共同開発したTKC9900。ベースはFACOM1518A。1975年に開発された製品だ1980年に東芝が開発したTASK80。TKCが提供する地方自治体向けの住民情報システムに活用した
オリベッティ DE523。1975年に使われていたもの。DE523のキーボードの色合いは、オリベッティらしい斬新さがある左がディスプレイ部で、右がアプリケーションやデータを、ロードおよびセーブするテープ部
オリベッティ DE710。1978年に使用されていた製品。2つのキーが特徴的だったV-80と呼ばれるTKC全国会の会員向けPC。富士通のFACOM9450がベースとなっている。コンピュータのオンライン化を実現した。会員向けに配られたV-80のカタログ。オフコン比で8倍の総合性能だという
V-80はスーパーパーソナルコンピュータと呼ばれた。当時は、TKCのシステムの歴史を「石器時代から青銅器時代を飛ばして鉄器時代に進めた」と富士通の山本卓眞元社長に評されたというV-80に接続されるプリンタV-80のタイマー装置。これを利用することで深夜にデータを吸い上げた
1982年に開発した「TASSCAL(タスカル)40/1」。東芝との開発によるもので、日本語情報プロセッサと位置づけられたTASSCAL 40/1に接続されるプリンタTASSCAL 40/1のカタログ。TASCALは「助かる」とともに、TKC ACCOUNTANTS SENTENCE & STATEMENT CALLIGRAPHERの頭文字であった
カシオ計算機の「FA-10」をベースにしたTASK mini85。カシオのポケットコンピュータ「PB-70」を搭載している東芝のJ-3100GT。TKCでは、1989年にJ-3100対応の所得税確定申告書作成システムを開発。全国で一気に活用が広がったTKC全国会システム委員会の取り組みの系譜

 

不撓不屈の人生を送った飯塚毅創業者

飯塚毅記念館の様子

 一方、創業者である故・飯塚毅氏の資料を展示する「飯塚毅記念館」は、167平方メートルのスペースに、飯塚氏に関連のある資料などを展示している。

 こちらは、飯塚毅氏およびTKCに関する数多くの歴史的資料として、写真や関連資料、講演会などの映像を用意。約2000冊の蔵書とともに、租税正義の実現に一生をささげた飯塚氏の生い立ちや姿勢、考え方などに触れることができる。

 飯塚氏は、1918年(大正7年)、栃木県鹿沼市の出身。

 少年時代は、7歳で大きな交通事故にあったこと、また、血を見るだけで吐いてしまうというという神経の細さであり、運動会への参加もままならないほどの虚弱児童であったというが、16歳の時に出会った那須雲巌寺の植木義雄老師の書生となり、座禅で心身を鍛え、福島高等商業学校をトップで卒業。東北帝国大学(現東北大学)に進学した。第二次世界大戦を経て、九州で終戦を迎えた飯塚氏は、1946年に飯塚毅会計事務所を創業することになる。


植木義雄老師による掛け軸。ここにも「自利利他」の言葉がある飯塚毅氏は7歳の時に自転車に乗って大きな交通事故をおこしたという植木義雄老師(左)と飯塚毅氏

 その後、飯塚氏は、欧米の会計に関する書籍から通じて得た知識をもとに、会計記録などの適法性、正確性などを検証するために企業に赴く「巡回監査」の手法を開発。新たな手法の実践に加えて、不当な税務処分には、たびたび審査請求を行い、当局の見解を覆すといったことも行っていた。

 中でも最大の出来事となったのが、1963年の飯塚毅会計事務所とその関与先69社が、関東信越国税局から一斉に税務調査を受けたことであった。飯塚氏が脱税指導を行った疑いがあるとし、連日80人の調査官が投入される税務調査が行われ、顧問先企業のなかには、経営者が連日の立ち会いで通常の業務ができなくなり、倒産寸前に追い込まれるという例も出ていたほどだ。顧問先企業が調査の中止を交換条件に、飯塚毅会計事務所との顧問契約を解除したケースも出始めた。

 のちにわかることだが、この調査の先頭に立ったのは、当時の関東信越国税局の直税部長。1960年に、米国資本の船会社の在日総支配人に対して80万円の所得税の修正が課せられた際、主税局の課長補佐であった同部長が下した判断は異なると、飯塚氏は主張。飯塚氏の主張が妥当であるとされた結果、当時の課長補佐は大勢の前で恥をかかされたという恨みが発端にあったという。

 調査の結果、飯塚会計事務所の4人の職員が逮捕。これに対して、国会では国税庁長官に対する厳しい追及が始まるなど混沌(こんとん)とした様相をみせた。しかし、約70回にわたって行われた公判の結果、宇都宮地方裁判所は、1970年11月、4人の無罪判決を言い渡した。

 約7年にわたったこの事件は、「飯塚事件」と呼ばれ、小説家の高杉良氏の「不撓不屈」(新潮社刊)として小説化されている。


飯塚毅会計事務所の様子飯塚事件を報道する各紙の記事。当初は、「税理士が脱税を指導」などの見出しが躍っていた

 一方、飯塚事件のさなか、1966年には、栃木県計算センター(現TKC)を設立。71年には会計人集団であるTKC全国会を結成した。

 第8回世界会計人会議のために、1962年に渡米した飯塚氏は、大型コンピュータの登場により、中小会計事務所の顧問先企業が大手会計事務所に吸収されはじめていることを知り、日本の中小会計事務所の職域防衛のためには計算センターの設立が不可欠であると判断。自ら計算センターを設立することが、中小会計事務所にとって最大の防衛策であると考えたという。

 設立時の資本金は100万円。それがいまのTKCにつながっている。1967年には、最初のユーザーとして、当時の栃木県黒磯町から税務計算業務を委託。1968年からは、会計事務所の財務計算の受託センターとして運用を開始し、73年には同センターを利用する顧客数は約300件に達したという。


創業当時の栃木県計算センターの様子創業時の社屋の内部の様子を模型にしている(IT博物館内)1974年に開催された第1回TKC全国大会の様子

 飯塚氏は、英語、ドイツ語にも堪能で、1990年には米ニューヨーク大学に飯塚毅経済会計研究所を設立するなど、海外の大学機関との連携にも取り組んだほか、1980年の税理士法改正においては、第1条の文言のなかに、それまでの「中正な立場」という言葉を、「独立した公正な立場」という言葉に改正することに尽力し、税理士の独立性を盛り込んだという。

 飯塚氏は、2004年11月に逝去し、86歳の生涯を閉じた。

 このほかの飯塚毅記念館の様子を写真で紹介しよう。


飯塚毅記念館の入り口飯塚毅氏の銅像飯塚毅氏の約2000冊の蔵書が展示されている
「覚悟の書」として、一度読んだら忘れないことを心がける。本は開かないように封印されている飯塚毅会計事務所の25周年に作られた飯塚氏の手形による灰皿飯塚毅氏の身分証明書。職員に対して、税務交渉などの禁止条項を書き込んでいる
比叡山への社員旅行の際に偶然読んだ「傳教大師」の本。ここに書かれていた「利他を以て即ち自利となす」の言葉がTKCの社是のベースとなる。この写真で手にしているのがその本社是となっている「自利トハ利他ヲイフ」の色紙
東北帝国大学時代の飯塚氏。1時限目の授業だけ出席し、あとは教授にいわれた書物を読みあさったという長男である飯塚真人氏(のちに真玄氏に改名し、現TKC会長)が事件中に、父・毅氏に送った手紙記念館には飯塚事件の判決文がすべて掲載されている
判決後に植木老師から送られた文書。「負けた者の身になること」という一文があるニューヨークで開催された第8回世界会計人会議へ出発する飯塚氏
1992年に衆議院大蔵委員会で意見陳述する飯塚氏ニューヨーク大学では何度も講義を行い、大学内に飯塚毅経済会計研究所を設立した中央大学から法学博士号を受けている
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