トピック

技術書類の証拠能力確保に向けたトヨタの知財管理DX
Azureによるブロックチェーンの新たな仕組みで
紙では困難だったプロセスをデジタルで実現

日本を代表する自動車会社のトヨタ自動車株式会社。同社は現在、自動車業界が迎えた100年に一度の変革期を乗り越えるべく全社的なDXを推進しています。その一環として取り組んでいるのが、特許を取得せず、社内に秘匿して保護する知的財産を今後も確実に使い続けられるようにするための、知財の「先使用権」の証明に足る文書管理業務の改革です。そのために、ブロックチェーンなどの技術を使った新たな証拠管理の仕組みをMicrosoft Azure上に構築する「Proof Chain of Evidenceプロジェクト」を2020年から推進。システム開発は現在、2023年1月の稼働開始を目指した最終段階にあります。また、このデジタルによる新たな仕組みは、知財保護だけでなく、知財を持ち寄り、互いに確認して安心して協業するための"場"としても期待されています。

モビリティカンパニーとして知財の範囲も急拡大

日本を代表する自動車メーカーであり企業でもあるトヨタ自動車株式会社。同社は自動車業界が100年に一度の大変革期に突入する中、豊田章夫社長の「モビリティカンパニーへの変革」との号令の下、IT活用でも世界トップクラスを目指したデジタル変革(DX)を全社一丸となって推進しています。

成果は同社の知的財産にもすでに表れています。トヨタ自動車の知的財産部で車両技術知財室長を務める山室直樹氏は、「当社は"移動"にまつわるサービスを拡充しており、企画部などの"事務方"が生み出したビジネスモデルの特許取得が近年になり急増しています。特許と言えば"技術屋"のものだった10年前とは隔世の感があり、知財管理を担う知的財産部として、知財保護を全社に呼び掛けるようにもなりました」と語ります。

知財は他社との差別化戦略の観点から大きな意味を持ちます。特に自動車産業はマーケットがグローバルで競合も多く、「CASE(Connected、Autonomous/Automated、Shared、Electric)」による自動車自体のデジタル化も急進する中、技術やノウハウなどの知財で優位に立てなければ競争に勝ち抜くことは困難です。他社からの技術調達はライセンス料の転嫁により、自動車価格に跳ね返ります。

トヨタ自動車は、豊田自動織機の特許譲渡対価の一部が、創業資金の一部になったという経緯もあり、かねてから発明を重視出願する特許はグローバルで年間1万2000件に上ります。

ただし、同社では知財の保護にまつわる、とある問題を抱えていました。それが、日本の特許法で認められている「先使用権」の活用に用いる文書管理が十分とは言えなかったことです。

秘匿知財を証明する文書の管理業務は極めて煩雑

特許による知財保護には一定期間後の公開による、悪意のある模倣のリスクが伴います。出願のためには手間やコストが生じ、知財自体の価値もそれぞれ異なるため、「すべての技術を出願対象にするのは現実的ではありません」(山室氏)。その点を踏まえた知財保護のもう1つの策が、あえて特許出願を見送り、社内に封じ込めることでの秘匿です。

ただし、この方法には厄介な問題が存在します。特許法では、特許が成立した知財について、それ以前から同様の知財を考案して事業化を進めていた者に対して、知財を引き続き使い続ける権利を先使用権として認めています。トヨタ自動車の秘匿知財が、たとえ他社の特許として成立しても、これにより理屈の上では問題なく利用できます。

しかし、「実態として先使用権は非常に活用しにくいのです」と山室氏は語ります。

先使用権の活用にあたっては、技術を使っていたことを紙や電子データの提出を通じて立証する必要があります。問題は、それらを証拠として認めてもらうために、発生時点や非改ざん性、関連性、順序性の証明が必要で、その状態を実現するには文書ごとの公証の押印やタイムスタンプの添付のために、専任担当者の配置やコストなど、少なからぬ負担が求められたことです。

これらを背景に、トヨタ自動車では「ノウハウ性が高いので大丈夫」との判断や、現場の多忙さが相まって、秘匿知財の証拠管理には十分に手が回っていなかったといいます。

ただし、この状況は経営の観点からも看過できるものではありません。グローバル化により現地に工場を立ち上げ、研究開発も行うようになる中、技術やノウハウの流出リスク、さらに、そこから特許を取得され、訴えられるリスクも増しています。
「裁判の結果、当社の先使用権の主張が認められなかった場合、数億~数十億の和解金の支払いが命じられてしまいかねません。経営に与えるダメージも大きく、無用な被害を受けないための、証拠となる文書管理の徹底が急務となっていました」(山室氏)

ブロックチェーンと文書電子化で効率的な証拠管理を

状況の打開に向けて山室氏が着目したのが、グループ横断組織「トヨタ・ブロックチェーン・ラボ」で社内実証が行われていたブロックチェーンです。「従来からの紙による知財管理を電子化して管理性を大きく高める。そのうえで、ブロックチェーンにより電子データの偽造を防止することで、先使用権を主張する際の証拠として認めてもらえる、しかも効率的な文書管理を実現できるのではと漠然とですが考えるようになりました」と山室氏は振り返ります。

以来、温めてきたアイデアを、カンパニー内のビジネスモデルコンテストに応募したところ、「デジタル社会の弊害である文書改ざんへの対応策」としての価値が高い評価を獲得。社外へのサービス提供まで見据えた「Proof Chain of Evidenceプロジェクト」として承認されたことで、2020年にPCEシステム開発プロジェクトが立ち上がりました。

プロジェクトでまず取り組んだのが、ブロックチェーンを用いた開発に技術やノウハウを提供してもらえる開発パートナーの選定です。

トヨタ自動車の知的財産部 先進モビリティ知財室 コネクティッド/スマートシティグループで主任を務める松本茂樹氏は、「ブロックチェーンに関して当社の知見は十分とは言えませんでした。アイデアを形にするためには、深い知見を兼ね備えた企業の協力が不可欠でした」と説明します。

いくつかのベンダーに話を聞き、最終的に白羽の矢を立てたのが独自のデータベースを手掛け、ブロックチェーンにも精通する株式会社Scalarです。

決め手はScalarの社風がトヨタ自動車と噛み合うと判断されたことです。システム開発は一般に、企業が提示した要件をベンダーが実装する形で進められます。
「しかし、Scalarはまったく異なりました。こちらの話を聞き、不備を指摘したうえで、改善案を何度も提案してきました。カイゼンは当社も得意とするところ。打ち合わせを重ねる度に、Scalarと組めば我々だけでは思いつかない価値をシステムに付加できるとの考えを深めていきました」(山室氏)

並行して取り組んだのがシステムのそもそもの狙いである、電子データを裁判の証拠として認めてもらうための要件の見極めです。グローバルでの利用を視野に、日本や中国、米国、欧州の弁護士事務所から幅広く意見書を取得するとともに、開発パートナーのScalarも独自ルートで情報を収集するなど、二人三脚で作業に取り組みました。結果、ブロックチェーンと他技術を組み合わせることで、電子データを証拠として確実に利用できることが明らかとなり、その詳細からシステム要件も固まったといいます。

処理速度を向上させるブロックチェーンへの工夫

システム開発は以後、本格化し、2020年度のPoV(Proof of Value:価値検証)と技術検証、2021年度のプロトタイプの社内検証を経て、2023年1月の社内での本番稼働と社外へのサービス開始を目指した最終開発段階にあります。すでに一部の開発部門で試験運用が始まっており、特に問題なく利用できているといいます。

では、PCEシステムは具体的にどのようなものなのか。端的に説明すれば、ブロックチェーンとハッシュ技術を組み合わせて、電子文書の証拠能力を確保する仕掛けです。ScalarでCEO/COOを務める深津航氏は次のように説明します。

「まずは証拠能力の担保が必要な電子文書のハッシュ計算を実施し、ハッシュ値を得ます。ファイルに手が加わると再度のハッシュ計算で違う値が生成されるため、両者を突き合わせて改ざんの有無を証明します。併せて、ハッシュ値のブロックチェーンによる管理を通じて発生時点や順序性を立証し、各国の法制に応じてトラストサービスも併用します」(深津氏)

松本氏は、「電子データの真正性確保のためのタイムスタンプや電子署名は有効期限が長くても10年で、知財保護のためには短すぎます。また、タイムスタンプは必要な国ごとに取得する必要もあり、手間やコストがかさみます。対してPCEシステムであれば独自に証拠能力の立証が可能です」とメリットを語ります。

一連の処理を担うのが、クラウドDBの種類を問わない一律なトランザクションを可能にしたトランザクションマネージャーの「Scaler DB」と、改ざんを含む任意の故障(ビザンチン故障)を検知できる「Scalar DL」という2つのScaler製品です。

開発の過程では苦労もあったといいます。中でも深津氏が「特に厄介」と指摘するのが、複数のコンピュータの過半数合意によって各コンピュータ上の台帳の整合性を保つブロックチェーンの仕組みから、一致しない台帳への修正処理が処理能力の足かせになってしまうことです。

そこでの対応策。それが、ブロックチェーンの全体の処理のうち、PCEシステムでの処理を「検知」までにとどめての処理の簡略化です。併せて台帳も2つに抑えて高速化を図っています。

また、ブロックチェーンの使い方にも工夫を凝らしました。ブロックチェーンで履歴として用いられるデータは通常、直列に記録され、同時に1つずつしか更新できません。対してPCEシステムではハッシュ値にチェーンを複数持たせ、別のチェーンを使った同時更新を実現することで、リソースの拡充によりリニアな処理能力の向上も可能にしました。

そのシステム基盤に利用されているのが、マイクロソフトのパブリッククラウド「Microsoft Azure」です。深津氏は、Microsoft Azureを開発基盤に選定した理由を次のように説明します。

「我々は常日頃からいくつものクラウドを猛烈に比較しています。その中で今回、Microsoft Azureに決めたのは、『サービス化のためにクラウドを』との依頼の下、テナントごとの暗号化といった個別の開発要件の対応度に加え、その後のトヨタ自動車内でのカットオーバー、さらに他社へのサービス提供を見据え、各種要望に対するフットワークの軽さを高く評価したからです。事実、開発中に発見した不具合にも即座に対応してもらえています」(深津氏)

技術面だけでなく、サービス提供に向けた配慮もシステムに払われています。生データを預からない仕組みに仕上げているのも、その1つです。
「企業が業務データを外部に預けることに抵抗があるのも当然です。証拠性を確保したいと考えるデータであればそれもなおさらでしょう。そこで、『勝手に見られているのでは』との疑念解消のために外部ストレージと連携し、そこに置かれたデータのハッシュ値だけを取得/管理するようにしています。Scalarのアイデアですが、システムもそれだけ"軽く"なっています」(山室)

無用のトラブル回避のための共同研究の「フィールド」

近い将来のPCEシステムの稼働に伴い、従来は困難であった証拠能力の確保のための知財文書の新たな管理の仕組みがデジタルにより実現します。これはまさにDXそのものです。

トヨタ自動車では、その早期の利用拡大に向け、まずは仕組みのグループ内での横展開とともに、知財を直接的に生む技術者から事務職までの利用者の拡大を計画しています。準備として進めているのが使い勝手の向上です。現段階では、証拠性を担保したいファイルを人手で所定の場所に登録しますが、「すでに社内には業務レポートを一元管理するディレクトリが用意されています。そこと連携を図ったり、ワークフローと組み合わせたりして操作を自動化することで、利用の手間を確実に削減できます」(松本氏)。

そこでのノウハウのフィードバックにより、社外向けサービスもより便利になっていきます。

その先にトヨタ自動車が描くのが、PCEシステムを共同研究の基盤とする"共創"の加速です。技術革新に伴う製品の高度化と複雑化により、技術のすべてを自前で用意することはコスト面でも困難になっています。この中で鍵を握るのが共同開発などのアライアンスです。しかし、互いに持ち寄った機密情報が作業の過程で混ざり合い、どちらに帰属していたかの判断がつかなくなることでの漏洩事故、いわゆるコンタミネーションが危惧されています。

「しかし、互いの技術をPCEで事前共有し、開示しておくことでコンタミネーションを防止でき、相手が自社の権利を侵害しているとの誤解もなくなります。PCEは無用のトラブルを回避し、安心して協業するための"場"としても機能するわけです。ぜひともPCEを、共同で技術を切磋琢磨するフィールドとして使っていただきたい。そのためには、現状に甘んじることのない多面的で継続的な機能強化が欠かせません。そこでScalarと日本マイクロソフトには今後もさまざまな知恵をお借りしたいと考えています。そこでの努力が、ひいては日本のモノづくりの再浮上に少しでも貢献できればと願っています」(山室氏)