トピック

F1のPU開発を支えるホンダのシミュレーション基盤にAzureを採用 クラウドを“感じさせない”ハイブリッド構成で技術者の負担を軽減

 創業者である本田宗一郎氏の名言「走る実験室」(レースが技術を磨く)の考えの下、自動車やオートバイを問わず、これまで数多くのレースに参戦してきた本田技研工業株式会社(以下、ホンダ)。2013年に表明した新たな挑戦が、パワーユニット(PU)の提供を通じた4度目となるF1参戦です。ホンダでF1のPU開発を担う株式会社本田技術研究所 HRD Sakuraでは、新コンセプトのPU開発の着手を機にシミュレーションの処理件数が急増したことで、既存のオンプレミス環境のリソース容量不足から計算の“完了待ち”の問題が顕在化。その解消に向け、HRD SakuraはMicrosoft Azureの利用を決断。システムの利便性向上に向けたマイクロソフトの技術的な支援もあり、問題は抜本的に解消され、開発スピードの大幅な向上を実現しました。

ホンダの挑戦の新たな“壁”がエンジンのハイブリッド化

 モータースポーツの世界で挑戦の歴史を刻んできた戦績から、自動車/オートバイメーカーの中でも有数のファンを抱えるホンダ。古くは1954年に世界で最も由緒ある公道オートバイレース「マン島TTレース」に出場し、1961年には表彰台を独占して完全優勝にこぎつけます。「ロードレース世界選手権 MotoGP」でも、ホンダ製オートバイは幾多のチャンピオンを生んできました。1964年からは自動車レースの最高峰である「Formula One(F1)」に参戦。ホンダのエンジンが支えたチームの強さは、創業者である本田宗一郎のキャラクターと相まって、1980年代後半からの国内のF1ブームの火付け役にもなりました。

 そんなホンダが2013年に表明した新たな挑戦。それが、パワーユニット(PU)――内燃エンジン、ターボチャージャー、エネルギー回生システムなどから成る動力システム――の提供を通じた、4度目のF1参戦です。ホンダ内の研究開発組織であるHRD Sakuraは、自動車レースの技術開発研究所として、車体開発や組み立て、オペレーションとともに、F1向けPU開発も一手に担うことになったのです。

 もっとも、これまでのPU開発の道のりは決して平たんではなかったといいます。HRD Sakura 第1ブロック チーフエンジニア パフォーマンス開発グループリーダーを務める高橋真嘉氏は、「再参戦に先立ち、我々は2013年からPU開発に着手し、2015年に最初のバージョンを形にすることができました。しかし、技術的な未成熟さから、なかなか結果を残すことはできませんでした」と振り返ります。

 苦労の根本には、F1のレギュレーション変更により2014年から採用されたPUの構造が、従来からのエンジンよりも大幅に複雑化したことがあります。

 「PUには従来からの内燃エンジンとターボチャージャーをベースに、ブレーキ時の運動エネルギーや排気ガスの熱エネルギーを回生する2つの新機構が追加されました。このエンジンのハイブリッド化により、我々が培ってきた自然吸気エンジンの強みが一気に失われ、ほぼ一からの試行錯誤を迫られることになったのです」(高橋氏)

レース要件を踏まえたモデルベース開発の一工夫

 こうした中でのPU開発で大きな役割を果たしたのが、コンピューター上でのシミュレーションを現実世界にフィードバックし、設計過程での仮説検証サイクルの高速化を通じて、短期間で効率的な開発を目指す、いわゆるモデルベース開発です。HRD Sakuraでは、最先端技術による短期開発が求められるレース用PU開発の特殊性を踏まえて、モデルベース開発に独自の工夫を加味してきました。それが、シミュレーション・システムの開発基盤化です。

 HRD Sakuraでは、新技術のいち早い取り込みを目指し、複数スペックの開発を前提に、約1年先を見据えてPU開発を進めています。その過程では、PUの最適化に取り組む「正常進化期」と、新たなアプローチで飛躍的な性能向上を目指す「ブレークスルー期」が繰り返され、このうちブレークスルー期には特に多大な試行錯誤が生じます。

 HRD Sakura 第1ブロックでアシスタントチーフエンジニアを務める矢野博之氏は、「単なるシミュレーション活用では計算回数が膨大となり、どれだけ処理を行えるかの単純な“力勝負”で性能が左右されます。そこで我々はシミュレーション・システムを知見蓄積のプラットフォームと位置付け、実験などで確認された各種現象のシミュレーション・モデルへの落とし込みに力を入れました。これにより、過去の知見を基に、既知の現象においてはシミュレーションを利用して仕様を絞り込むことで開発を加速させ、未知の現象の領域に対しては、有効なテストを行い、結果をシミュレーションも用いながら分析することで、より円滑なPUの最適化に繋げられます」と説明します。

 HRD Sakuraではそのための大規模シミュレーション環境を従来からオンプレミスで整備。ただし、2017年に入りHDR Sakuraの開発競争力を左右しかねない、シミュレーションに起因する課題が顕在化します。それが、シミュレーション件数の急増によりオンプレミスの処理能力が追い付かず、計算の“完了待ち”が発生するようになったことです。

計算処理待ちがPUの競争力を低下させる原因に

 要因の1つが、新コンセプトのPU開発に着手したことがあります。要因の1つが、新コンセプトのPU開発に着手したことがあります。

 「PUは基本的に、シリンダー内の燃料を早く燃焼させ切るほどエンジン出力が増します。そこで、劣勢の挽回に向けてエンジンプラグでの点火に併せて、圧縮熱でシリンダー周辺部からも自着火させる方式を開発しました」(高橋氏)

 知見の蓄積がない、新たな燃焼形態を具現化するには、必然的に多くの実験とシミュレーションが必要となります。そこに、すでに挙げたPU構造の複雑さという要因も加わったといいます。矢野氏によると、ホンダのPU開発は、内燃エンジンでは単気筒を用いて性能を確認し、そこから多気筒化や他コンポーネントとの組み合わせなどを繰り返すことで進められるといいます。個々の性能の積み上げを通じた完成時の性能の予測精度の向上と、問題発生時の原因究明の時間の短縮が可能なことがメリットです。

 しかし、コンポーネントが増えれば、組み合わせのパターンも指数関数的に増加します。「最終的にはどのタイミングで、何が、どこに、どのような影響を与えるかの検証のために、全コンポーネンによるモデルや設定を変えた精緻なシミュレーションを行います。新機構が追加されたことで、そのための計算回数は飛躍的に増大することになりました」(高橋氏)。PUの開発期間は各スペックで数カ月ほど。そうした中での計算の完了待ちは、PU開発競争力の低下要因として看過できなかったといいます。

クラウドを“感じさせない”仕組みで活用を後押し

 状況の打開に向けHRD Sakuraが着目したのが、突発的なリソース要求にも柔軟に対応可能なパブリッククラウドの活用です。そのうえでHRD Sakuraでは、Microsoft Azure(以下、Azure)に白羽の矢を立てたと打ち明けます。

 「一番の理由は、強力なサポートを見込めたことです。我々のミッションはPUの性能を上げることで、システム整備や運用にリソースを割きたくはありません。その点、マイクロソフトとは以前から付き合いがあり、そこでの経験からAzureでも引き続き手厚い支援を見込めたことが採用の決め手になりました」(高橋氏)

 熱流体解析アプリケーションの「CONVERGE」と、解析結果を可視化するポストプロセッサ「EnSight」から成る、オンプレミスと同様のシミュレーション環境がAzure上で稼働を開始したのは2018年のこと。HPCソリューションズの支援による、使い勝手を高めるためのGUIベースの画面も用意しました。しかし、当初は現場でなかなか利用が広がらなかったと矢野氏はいいます。

 「原因は、オンプレミスとクラウドでシステム的に独立していて、個別操作が必要なことでした。私自身はクラウドを使えば結果がすぐに得られるとその有用性を実感していましたが、ジョブの投入方法がオンプレミスとクラウドで異なるうえ、どちらにジョブを投入すべきかの判断を個々の技術者に委ねていたため、クラウドの利用率がなかなか上がらなかったのです」(矢野氏)

 そこで矢野氏が打った“次の一手”が、オンプレミスとクラウドとのシームレスな連携を目指した追加開発です。具体的には、オンプレミスの処理上限を超えた計算要求を、自動的にクラウドに振り分ける新たな仕組みにより、オンプレミスとクラウドでの“2度手間”を一掃するとともに、クラウド利用を意識することがない操作を実現したのです。

 「システム全体を俯瞰すると、開発は一筋縄ではいきませんでしたが、その中でもクラウドへのデータ転送方法をはじめとする課題について、マイクロソフトの知恵を借りつつ解決策を共同で見出すことで、2019年夏には計算結果のみをオンプレミスに転送する仕組みの実装にまで漕ぎつけました。それらは複雑なスクリプトの塊ですが、マイクロソフトとHPCソリューションズの協力を抜きには、これほどの短期開発は難しかったはずです」(矢野氏)

Azureによる解析基盤で開発プロセスの強みを確立

 新たな仕組みの完成を機にHRD Sakuraでは、当初の狙い通りに解析処理待ちが一掃されています。関連して、必要な解析のすべてを行えるようにもなりました。実はHRD Sakuraでは従来、開発遅延を防ぐため、開発スケジュールから逆算して実施すべきシミュレーションを担当者が取捨選択。言い換えれば、従来はそこから漏れるものも少なからずあったということでもあります。

 「PUの性能進化は、ブレークスルー期にモデルの完成度をどこまで高められるかに大きく左右されます。そこでモデルと実現象のギャップが大きい場合、いくら努力しても正常進化期で手戻りが発生し、結果を残すことができません。従来はやり切れなかった検証も可能となることで完成度を高められ、PUの性能は着実に底上げされています」(高橋氏)

 ホンダは2020年に翌年でのF1からの撤退を表明しました。惜しまれつつ迎えたF1ラストイヤーの2021年、ホンダ製PUを積んだレッドブル ホンダのマックス・フェルスタッペン選手は、最終戦のアブダビグランプリを制し、見事ドライバーズチャンピオンを獲得しました。1991年のアイルトン・セナ選手以来、30年ぶりの栄冠をホンダにもたらしたのです。

 「F1で優勝するには、ドライバーや戦略、車体、PUのすべてで相手チームと同等以上でなければなりません。そこから抜け出すには、開発プロセスでも『やれること』ではなく、より高いレベルでの『やるべきこと』をやり、独自の強みを確立する必要があります。今の成績は、Azureによる解析基盤の整備を通じ、それを組織全体で行えるようになったことの証です。ようやくここまできたというのが、今の実感です」(高橋氏)

世界一の技術を目指すホンダの新たな挑戦

 一方で、F1は「走る実験室」と言われる通り、次世代技術を先行して試す場でもあります。検証対象には車両に組み込まれる技術だけでなく、エンジニアリングで用いられる技術も含まれます。その観点から、高橋氏が今後に期待を寄せているのが、一般車両の開発でも採用が広がっているモデルベース開発でのクラウド活用による開発の深化です。

 「より良いモノづくりを目指して、少しでも高機能で最先端のツールを使いたいと技術陣が考えるのはモデルベース開発でも同様です。今回もIT部門の協力があり新しいシステムの構築に漕ぎつける事ができましたが、一般論として将来の事を考えると様々なオンプレミスのシステムを見なければならないIT管理側にとっては、最新環境を導入し維持する手間や、利用者(社内技術者)への対応コストなどの問題から、すべての要求に対応することは現実的に難しくなってきていると思われます。しかし、クラウドを利用すれば、極言すれば、運用管理を外部に切り出せ、管理者の手を煩わすことなく、その時の最新作業環境を得る事ができるようになります。Azureの性能や信頼性、さらにITとエンジニアリング双方のまたがるサポートの確かさを一つの選択肢として今回確認できたことは、我々にとってのエンジニアリングプロセスの進化材料の1つです」(高橋氏)

 今後について、矢野氏は次のように意気込みを語ります。

 「F1撤退後も、技術者としての自分の夢『世界一の技術への挑戦』は続きます。そのために技術者の我々が求められているのが、さらなる経験や知見の蓄積です。AI技術が進化する中にあっても、人の直感や新たなアイデアの重要性に変わりはありません。AzureのようなIT基盤を最大限活用しつつ、求められる能力を磨くことで、新たなイノベーションに挑戦し続けます」(矢野氏)