ニュース

大塚商会、業界関係者600人が集い50周年感謝会を開催

「街の電器屋さんのような企業を目指す」と大塚裕司社長

東京・内幸町の帝国ホテルで開催された創業50周年感謝祭
挨拶する大塚商会 代表取締役社長の大塚裕司氏

 株式会社大塚商会は27日、東京・内幸町の帝国ホテルにおいて、大塚商会創業50周年感謝会を開催。約600人の業界関係者が駆けつけ盛大に祝った。

 大塚商会は、1961年7月17日に、現相談役名誉会長である大塚実氏が、東京・秋葉原で7坪に満たない広さのオフィスで創業。中小企業をターゲットに、複写機の販売、サービスを開始した。1970年からはオフコンの販売を、1981年にはPCの販売をそれぞれ開始したほか、1985年からは福利厚生を兼ねたホテル事業を開始している。2000年には東京証券取引所第一部に上場し、2001年に創業40周年を迎えたのを機に、長男の大塚裕司氏に社長を交代。2010年度の売上高は4634億円、営業利益は190億円、社員数は連結子会社を含めて8240人となっている。

 大塚裕司社長は、「父が大塚商会を創業した時には小学2年生。夏休みに母と一緒に電話番をしに会社に行ったが、かかってくるのは間違い電話だけ。ブラインドをいじったり、手提げ金庫を開け閉めしたりしていたことを思い出す。50周年を親子2代で迎えることができたことに感激している。父は転職5回、創業したのが38歳。私も転職5回で38歳に大塚商会に戻った。これも天命である」などと、創業時のエピソードやジョークを交えてあいさつした。

 また、「大塚商会のお客さまの約8割が中小企業。創業のポリシーを大事にしながら、街の電器屋さんのような親しみを持ちながら、ITを活用して便利にするといった事業を行ってきた。2001年に社長に就任した時には、創業の精神を継承すること、公開企業として業績向上と社会的責任を両立すること、ITの先端企業として業界に対して地に足のついたリーダーシップを発揮すること、お客さまとの密着度を高めて、的確なソリューションを常に提供するといったことともに、仕事を通じて社員の成長と自己実現を目指す会社を作りたい、長所と短所を把握しつつ、変化に対応する会社になりたい、科学的経営を目指す、若手の意見を活用するといったことを考えた。先日棚卸しをしてみたが、どれも道半ばである。10年前から自分自身が成長していないのかとも思うが(笑)、次の10年に向けて大塚商会は、お客さま、取引先様とともに、この目標達成に一歩でも近づけるように取り組んでいきたい」と語った。

会場では大塚商会創業時などの写真も公開された
大塚商会の50年の業績の推移
祝辞を述べるリコーの代表取締役社長執行役員・近藤史朗氏

 祝辞を述べたリコーの代表取締役社長執行役員・近藤史朗氏は、「大塚商会とリコーは兄弟のような、親せきのような会社。ある時はライバルであり、協調することもできる会社」と前置きし、近藤社長が画像処理事業本部を統括していた時にセキュリティビジネスの提案を行ったものの、大塚実氏から「すでにうちはやっているよ」と言われたこと、カラー複写機の品質問題が発生し、その問題をきっかけに大塚商会の協力を得ながら開発プロセスを一新したこと、リコーのITシステムを見直しするのにあたり、大塚裕司社長が、リコーの担当者に2時間にわたって直接説明をしてくれたというエピソードを紹介。

 「私の方が5歳年上だが、社長歴では大塚裕司社長の方が5歳長い。先輩として学ばしていただいている。大塚商会は、常にリコーの先を歩んでおり、自分たちの未来、お客さまの未来を設計して企業の行く道を切り開いていくという姿勢がある。若いエンジニア当時から学ばせてもらった。次の100周年に向けても成長をしていく企業だろう」とした。

祝辞を述べたNEC 代表取締役執行役員社長の遠藤信博氏

 また、NEC 代表取締役執行役員社長の遠藤信博氏は、「大塚商会は50年間にわたって成長を続けてきた会社。敬意を表するとともに、学ぶべきところが多いと感じている。私は、『事業は人』、『企業は文化』と考えており、ビジネスの基本は信頼関係を築くことだと思っている。これは会社と会社で作るものではなく、人と人との間で作るものである。いかに信頼関係を作れる人が集まっているかが大切である。大塚商会は50年間にわたり、いい人が集まり、いい文化が会社のなかに育っている。未来に向かって成長していく姿が大塚商会にはある」などとした。

祝辞を聞く大塚商会 相談役名誉会長の大塚実氏(右)と大塚商会 代表取締役社長の大塚裕司氏(左)

 創業50周年感謝会の最後にあいさつした大塚実名誉会長は、「ビルマ(当時)戦線で生き残り、2年間の収容所生活をしたのちに、七転び八起きを繰り返した結果、サラリーマンとしての限界を感じたことで、生命保険を切り崩し、なけなしの30万円で創業したのが大塚商会。生涯をかけて、30人程度の所帯になること、社員と社員の家族に喜ばれる会社に育てたいというのが当時の夢だった。それを実現するために、『サービスに勝る商法なし』を掲げ、顧客満足度で他社と差別化しなくてはならないと考えた。それから50年を経て、今日の大塚商会の隆盛がある。感無量である」とコメント。

 さらに「第一線を退いてからは経営には一切口出しをしないようにする一方で、第2の人生として、日本の美しい自然の保護と、失われた景観の再生に対して、私費を投じている」と語り、東京の日本橋川の浄化、静岡県熱海の活性化と梅園の再生、千葉県鴨川市の大山千枚田の棚田の保護などに取り組んでいることを紹介した。

 最後に「私は今年89歳になった。この年まで生きながらえて、50周年の集いを迎えることを幸せに感じている。天運に感謝するばかりである」とした。あいさつのあとには長い拍手が続いていた。

常に病的なまでに不安感を持っていたことが成長の一因

 一方、大塚商会創業50周年感謝会の閉会後には報道関係者を対象に大塚実名誉会長と大塚裕司社長による質疑応答が行われた。

 大塚実名誉会長は、「大塚商会の成長を振り返ると、常に病的なまでに不安感を持っていたことが背景にある。遠くの空の雲を見てちょっとへんだと思うと、そこに駆けつけて変化を確認した。東日本大震災では、『想定外』という言葉が何度も使われていたが、恥ずかしくもなくこの言葉を使っていることが許せないし、がくぜんとする。経営は、すべて想定のなかでなくてはできない」としたほか、この10年にわたる大塚裕司社長の手腕に関しても言及。

 「将棋でいうと、成り飛車や、成り角に成長した。成り飛車になることで前後左右どこにでもいけるようになり、大塚商会が持っている力を最大限に発揮できるようになった。私はコンピュータに弱いが、社長は子供のころから機械が好きで、コンピュータのマニア。それを生かして、SPRという営業ツールを活用することで、社員数を増やさずに、売り上げを増やした。これは私にはできないことであり、考えもしなかったことだった。自分の息子であることを誇りに思う」とした。

街の電器屋さんのような企業になりたい

 また、10年間の取り組みについて大塚裕司社長は、「大塚商会は変わっていない。創業の精神を継承することも変わらない。年間スローガンもほとんど変わっていない。当たり前のことをきちっとやっていくことに取り組んでいる。ただ、時代にあわせて手法を変えていくことも必要である。例えば、たのめーるを99年に開始したが、これは創業時に感光紙を電話一本で届けるのと考え方は一緒であり、仕組みを変えたもの。大塚商会の組織を見ると、10年前と比べても、違いはαランドが無くなっただけ。それ以外は、なくなった部門も、名前を変えた部門もない。大塚実社長の時代からの組織を継承したものであり、そのなかで仕事のやり方、ITの活用の仕方を成長させている」と語った。

 今後10年に向けては、大塚裕司社長が「街の電器屋さんになりたい」と語り、「お客さまにとって、親しみのある会社にしたい。私が社長に就任してからイメージカラーをブルーから暖色系に変えている。スマート、理知的、ハイテクというブルーのイメージから、親しみや、やさしさを感じるイメージにしたかった。IT担当者がいない中小企業の方々が困っていることを解決できる会社になりたい。コピーだけ、サプライだけの取引というお客さまも多い。もっと複合的な提案が必要である。ここは努力する必要がある」と語った。

 そのほか、「大塚商会には、営業、技術サポート、業務スタッフがおり、これを三位一体としている。第1号社員は女性の業務担当者、その後営業担当者が入社して、4人目には技術スタッフが入社した。30万円の元手でスタートし、自動車もない時期から、自社で修理にいける体制を整えていた。これがいまの大塚商会の原点であり、街の電器屋さんになりたいという、現在の考え方につながるものだ」と語った。なお、この2人の社員が社内結婚第1号であるというエピソードも披露した。

乾杯の音頭をとった横浜銀行 取締役常務執行役員の野口隆氏
中締めをした大塚商会 取締役専務執行役員の濱田一秀氏
感謝祭の最後に挨拶した大塚実相談役名誉会長
来場者を送り出す大塚商会の幹部
感謝会終了後の会見で握手する大塚商会 大塚実相談役名誉会長(左)と、大塚裕司社長(右)