インタビュー

「カギを握るのはHTML5」、SAPのモバイル担当者が語るエンタープライズ×モバイルのこれから

独SAPのニコラス・J・ブラウン氏

 スマートフォンやタブレットのビジネスシーンにおける利用が進む一方、モバイルというコンシューマ発祥のテクノロジを、制約の多いエンタープライズの現場に持ち込もうとすると、さまざまな課題が浮き彫りになる。BYOD(Bring Your Own Device)をめぐる企業の対応が後手後手にまわりがちなのも、モバイルという進化の速いトレンドに追いつくことが難しいエンタープライズのとまどいと言うこともできるだろう。

 モバイルという、世界をいままさに変えつつあるテクノロジをエンタープライズに生かさないのはビジネスにおける多大な機会損失であり、むしろこれからはエンタープライズも"モバイルファースト"で行くべきだ――。

 そう強く提唱しているのは、エンタープライズにおける業務システムの象徴的存在だったERPのトップベンダ、独SAPである。同社はここ1、2年、エンタープライズにおけるモバイルアプリケーションの普及に全社を挙げて注力しており、それは現在、SAPが明確に打ち出している"コンシューマ指向"とも合致する施策でもある。

 コンシューマに比較して大きく後れを取っているエンタープライズモバイルの世界をSAPはどのように変えようとしているのか。10月に米ラスベガスで開催された「SAP TechEd 2013」においてSAP Labsでモバイルマーケット 開発/戦略部門のシニアバイスプレジデントを務めるニコラス・J・ブラウン(Nicholas J. Brown)氏に直接インタビューをする機会を得たので、これを紹介したい。

開発者に好きなツールを使う自由を!

――今回のTechEdにおいてSAPはモバイルアプリケーション開発基盤である「SAP Mobile Platform 3.0」をリリースしましたが、10月22日に行われた基調講演では残念ながらあまりこの発表には触れられませんでした。あらためて、この新バージョンの特徴について解説していただけますか。

 その前にSAP Mobile Platformという開発環境の概要について説明しておきましょう。SAP Mobile Platformは開発者のためのモバイルアプリケーション開発プラットフォームです。もともとSAPがもっていた開発基盤に、SybaseやSycloなど買収した企業の資産を統合し、シングルプラットフォームとして提供しています。

 SAPは金融や流通/小売りなど24のインダストリに対し、アプリケーションのモバイル化を支援しています。これは社内で使う業務アプリケーション(B2B)、そして顧客に対して提供するアプリケーション(B2B2C)の両方のモバイル化を指しています。エンタープライズにおけるモバイルアプリケーションの迅速な開発を支援するプラットフォーム、それがSAP Mobile Platformです。

 われわれは買収以前からSybaseやSycloのモバイル開発基盤を使っていた顧客に対して責任があります。既存ポートフォリオのユーザーも問題なく使い続けることができ、さらに進化した環境を提供すること、これはSAP Mobile Platformのミッションのひとつでもあります。

 新バージョンの3.0は多くのドラスティックな変化を含んでいます。中でも最大の特徴は開発者に“BYOT(Bring Your Own Tools)”という選択肢を提供することです。SAP Mobile PlatformはSDKやライブラリを開発者に対して提供していますが、これに加え、開発者の好きなツールを使ったアプリケーション開発を可能にしました。これによってよりフレキシブルなモバイルアプリケーション開発が促進されることになるでしょう。

――開発者が自分の好きなツールでモバイルアプリケーションを開発できれば生産効率が上がるという前提の下での強化ポイント=BYOTと見ていいでしょうか。

 モバイルアプリケーション開発において最も重要なのはスピードです。これはコンシューマもエンタープライズも同様です。アプリケーション自体のレスポンスの速さも含まれますが、アジリティをもって迅速に顧客やユーザーの要求に応えたアプリケーションを提供するには、開発の生産性を高める必要があります。あなたが言われる通り、BYOTは開発者の生産効率を高め、アプリケーションに多様性をもたせるための機能強化ということができます。

 もともと、SAP Mobile Platformは開発者の生産性向上を強く意識しています。そのあらわれのひとつがオープンスタンダードへの徹底したこだわりです。例えば新バージョンでは、オフラインでの利用も可能にするOData(Open Data Protocol)や、Spring/Equinoxといったフレームワークと一緒に使えるフレームワークのOSGi、クロスプラットフォーム開発を可能にするフレームワークのApache Cordva、そしてクラウドでもオンプレミスでも利用できるREST APIなど、誰もが認めるモバイルアプリケーション開発の標準技術に準拠しています。

 オープンスタンダードであれば、開発者が新しい技術を習得する時間を大きく減らすことができ、開発生産性の大幅な向上にもつながります。

――SAP Mobile Platform 3.0ではクラウドアプリケーション開発にも対応したと伺っています。

 クラウド対応はBYOTと同様、3.0における重要なアップデートです。今回からクラウドベースでモバイルアプリケーションを開発することが可能になりました。クラウド版の開発環境は、SAPが提供するPaaSの「SAP HANA Cloud Platform」上で稼働しています。対応プラットフォームはiOS、Android、Windows 8、Windows Phone、BlackBerryで、ネイティブアプリケーションにもハイブリッドにも対応可能です。

 残念ながら、現状のクラウド版はオンプレミスとまったく同等ではなく、実装できていない機能もあります。ですがそう遠くない時期にオンプレミスとクラウドの差がない状態にできると思っています。

SAP Mobile Platformの4つのフォーカスポイント

――先ほど、SAP Mobile PlatformはSybaseやSycloのポートフォリオを統合したプラットフォームと言われましたが、エンタープライズのためのモバイルアプリケーション開発プラットフォームとして、SAPが最も意識しているポイントがあれば教えてください。

 われわれはこのプラットフォームに対し、4つのフォーカスポイントを設定しています。

 ひとつめはネイティブアプリケーション開発のためのツール提供です。iOS、Android、Windows Phoneの3つのOSに対してはSDKおよびライブラリをそれぞれ提供しています。

 2つめはHTML5サポートの強化です。われわれとしては、できればネイティブと同等かそれ以上の投資をHTML5に対して継続的に行っていきたいと思っています。金融業界などからの根強い需要があるBlackBerryについてはHTML5で対応しています。

 3つめはSycloから引き継いだアプローチ、つまり業務アプリケーションのモバイル化を積極的に進めていくことです。SycloはERPやCRMとの連携を非常に得意とするソリューションで、現場のユーザーに使いやすいモバイルアプリケーションを開発できるとして世界中の企業から高い評価を受けてきました。

 既存のアセットのマネジメントにすぐれており、アプリケーションのモバイル化にあたって大きな改修を必要としません。それだけではなく、ビジネスプロセスの変化にも柔軟に対応できるので、単に既存のアプリケーションをモバイル対応させるだけでなく、現状の業務にフィットしたモバイルアプリケーションとして提供することが可能になります。

――時代の流れに即した業務アプリケーションをモバイルでも、という流れになりつつあると。

 むしろモバイルだからこそup-to-dateなアプリケーションが必要であり、また開発しやすいといえます。時代の流れが速いからモバイルが流行(はや)るのであり、モバイルが普及すればするほど経営を取り巻く環境はさらに変化していくでしょう。その流れにあわせて、リーガルイシューやコンプライアンス、グローバルにおける展開など、ビジネスプロセスもどんどんアップデートされていく。Sycloのアプローチはビジネスプロセスの柔軟な変更を可能にします。モバイルでも、ではなくモバイルだからこそ、業務アプリケーション開発にアジリティが求められるといえます。

――アプリケーションのモバイル化というよりはビジネスのモバイル化、という感じですね。4つめのフォーカスポイントも教えてください。

 SAP Mobile Platformではシングルアプリケーションの開発だけにとどまらず、複数のアプリケーションを組み合わせて新たなケイパビリティをもったアプリケーションを開発できるようにすることを目指しています。そのためにはクロスプラットフォーム開発も重要です。今後は単体のネイティブアプリケーションというものはあまり価値をもたなくなるのでは、とわれわれは見ています。iOSでしか、あるいはAndroidでしか動かない単機能の業務アプリケーションはだんだんと姿を消していくでしょう。既存の資産をうまく組み合わせ、複数のケイパビリティを備えたアプリケーションの開発ができるように進めていきたいと思っています。

柔軟性が高いアプリの開発にはHTML5が適しているが…

――4つのフォーカスポイントのうち、SAPにとって最もプライオリティが高いのはどれになりますか。

 やはりHTML5ですね。HTML5の普及はモバイル業界全体の今後の成長にもかかわってくる大きな課題です。クロスプラットフォームで、フレキシビリティが高いアプリケーションを開発するには、やはりネイティブよりもHTML5のほうが適しているといえます。

――一方で開発者の多くがHTML5よりもネイティブOSでのアプリケーション開発に注力しているように思えるのですが。

 たしかにその通りで、ネイティブからHTML5へのシフトはなかなか難しいと実感しています。われわれのユーザーにも聞いてみたのですが、ユーザーエクスペリエンスの変化、そして何よりパフォーマンスがつらいという意見が多いですね。ネイティブアプリケーションと比較するとフラストレーションがたまるという声は本当によく耳にします。特にiOSのネイティブアプリケーションになじんでいるユーザーはHTML5が苦手のようです。

個人的にはHTML5はコスト、それからデプロイの時間の両面においてすぐれていると思っています、しかしユーザーにとっては使い勝手のほうがはるかに重要なのもわかります。だからこそHTML5アプリケーションの場合、ユーザーのフィードバックを大切にすることを勧めています。

――ローンチ&イテレートのように細かい改善を繰り返してくという感じでしょうか。

 私はモバイルアプリケーション開発に関する相談を顧客から受けたときは“Stay focus on users.(ユーザーに集中せよ)”とアドバイスしています。アプリケーション開発において最も大切なのはやはり実際に使うユーザーの声です。誰も使わないアプリケーションほど残念なものはありません。もしユーザーにとってパフォーマンスが最大のプライオリティなら、それを再優先したアプリケーションに改善するべきでしょう。

――SAPは今年5月のSAPPHIRE NOWでHTML5のアプリケーション群「Fiori」を発表しています。このアプローチがSAP Mobile Platformにも取り込まれる可能性はありますか。

 可能性はあります。Fioriのチームとわれわれのチームは異なりますが、HTML5アプリケーションを、さまざまなプラットフォーム上で稼働させ、しかも見た目も美しく表示させるというアプローチは、われわれにとって非常に参考になりますね。

BYODで重要なのは許可されていないデバイスをアクセスさせないこと

――HTML5の普及はBYODにとっても欠かせないと思うのですが、BYODについては、セキュリティが担保されないことを嫌うエンタープライズユーザーがだかなり多いような気がします。このハードルはどう乗り越えられると思いますか。

 BYODにおけるセキュリティは1、2年前と比べてもかなり改善しています。これまでハードルとなっていたのは、モバイルデバイス管理(MDM)がうまくいかないことでしたが、SAPも「SAP Mobile Device Management(SAP MDM)」などを提供しており、この分野の製品はかなり充実してきた感があります。

 BYODにおける最大のポイントは、許可されていないデバイスのアクセスを許可しないことです。これはSAP自身がユーザーとなってSAP MDMを運用し、BYODを推進してきたからいえることです。モバイルデバイスを紛失するユーザーも少なくありませんが、MDMで運用していればデータをすぐにワイプ(消去)することが可能なところも大きいですね。

 実は私も一度iPhoneをなくしたことがあるのですが、そのときもデータは一瞬でワイプされ、何事も起こりませんでした。最も以前の上司からはものすごく怒られましたが(笑)

SAP runs SAPはモバイルでも実践。ブラウン氏がもっているiPadにはSAPアプリがずらりと並んでいる

――“SAP runs SAP”の実践例ですね。

 そうですね。もちろんSAP MDMだけでなくSAP Mobile PlatformもSAP社内で活用しています。全世界で5万人を超えるユーザーが60を超えるエンタープライズアプリ(セールス、マーケティング、開発、オペレーションなど)を利用していますが、いずれもSAP Mobile Platformで開発されたものです。

――最後にブラウンさん自身がモバイルアプリケーション開発において目指しているところを教えてもらえますか。

 「OpenTable」というWebアプリケーションをご存じですか。レストランの予約がどこからでも一瞬にしてできるすばらしいユーザーエクスペリエンスを備えたサービスです。シンプルで美しいデザインながら、非常に機能的で使いやすい。予約状況もすぐにわかるし、お店の検索も迅速に行えます。こんなサービスを待っていた人は本当に多かったのではないでしょうか。

 私はエンタープライズにおけるモバイルアプリケーションもまたOpenTableのようにあるべきだと思っています。ユーザーが本当に望んでいる機能を、ユーザー以上に熟知し、それを開発して実装する。機能的で、パフォーマンスが高くて、そして使いやすく、美しい――。

 エンタープライズアプリケーションがそうなっていくためには、まずはモバイルから実現していきたいですね。きっとユーザーのマインドセットも変わっていくと信じています。

五味 明子