富士通のコンピュータ事業を築いた山本卓眞顧問が逝去

取材ではPCメーカー買収計画の裏話も


 富士通の元社長である山本卓眞顧問が、1月17日、肺炎のため逝去した。享年86歳。

 富士通がコンピュータ事業を開始するために設置したプロジェクトメンバーに参画。長年にわたり、コンピュータ事業成長のけん引役を担った。

 1981年6月に代表取締役社長に就任。1990年には代表取締役会長を務め、1997年に名誉会長に就任。2006年からは顧問となっていた。

 

特攻当日に終戦を迎える

山本卓眞氏

 山本卓眞氏は、1925年(大正14年)9月11日に、軍人である父の山本吉郎氏と、母・フジエ氏の次男として誕生した。

 2歳の時、消化不良を起こし医者がサジを投げたというほどの病に苦しんだが、母が「ゲンノショウコ」を用いて回復したというエピソードがある。

 1943年には陸軍航空士官学校に進み、1945年3月に同校を卒業。赴任先の旧満州で特攻隊の一員として、8月15日に出撃が予定されていたが、その日に終戦を迎え帰国した。

 20歳までの間に2度、命を落とさずに済んだ経験があったというわけだ。

 この時、山本氏が「生涯忘れられない言葉になった」というのが当時の部隊長からの訓示。「これまでは死ぬことを求めてきたが、これからは地をはい、草をかみ、犬になっても、こじきになっても生き抜け。生きて祖国の再建に力を尽くせ」と語り、続けて、「衣食住についてはこれまで国が支給してきたが、お前たちは自活する道を学んでいない。それを思うと哀れで涙が出る」と語ったともいう。

 山本氏によると、当時の部隊長の年齢は40歳。「自分の身を考えず、国の将来のこと、部下たちのことを考えた言葉を、この年で発していたことには驚く」と、後年述懐していた。

 

富士通に入社し、通信機器、コンピュータを担当

FACOM222
FACOM230-60

 戦争で日本の無線通信技術の遅れを感じていた山本氏は、東京大学第二工学部電気工学科に進み、1949年に同校を卒業後、富士通信機製造(現・富士通)に入社した。

 配属先は交換機課。クロスバー方式の交換機の開発も担当した。

 1952年にはコンピュータ開発のプロジェクトメンバーに参加。1961年に出荷したトランジスタ式電算機であるFACOM222の設計や、1970年のFACOM230-60の開発などのエポックメイキングな製品にも大きく貢献した。FACOM230-60の開発では、国産技術の開発への貢献が評価され、科学技術庁長官賞(科学技術功労者表彰)を受賞している。

 1974年には電子事業本部長に就任。1975年には取締役就任。1976年には常務取締役に就任。専務取締役としてコンピュータ事業を率いていた1979年には、売上高で日本IBMを抜き、日本のコンピュータ市場でトップの座に就いた。

 1981年に、55歳で富士通の第9代社長に就任後、米AT&T光通信商談問題、半導体分野における米国フェアチャイルド買収問題、米国IBMとの知的財産権をめぐる紛争などに直面。これらの問題を解決していった。

 国内ではITベンダー各社による公共機関向けITシステムの一円入札問題などが表面化。この時、各社が謝罪会見を行ったが、当時、NECの社長だった関本忠弘氏が高い身長で深々とお辞儀したのに対して、低い身長の山本氏が、あごを引いて正面を見据えた直立の姿勢で会見に臨んだことで、「謝罪している雰囲気が伝わらない」と、当時のマスコミの声があった。軍人出身の山本氏らしい話だ。

 社長就任時には約8000億円だった連結売上高は、退任の1990年には2.5 兆円に拡大している。

 しかし、退任後に山本氏は、「後半は利益率が落ち、先輩が築いた高収益企業の伝統を引き継げず申し訳ない。経営責任を感じている」と語っていたという。


社長職を務めていたころの山本氏の名刺

 

「そんなのはゴミだ!」と一喝

 技術重視の富士通において、技術畑出身である山本氏であったが、営業の重要性を理解している人物でもあった。

 1970年代のコンピュータ産業では、技術のユニバック、営業のIBMといわれていたこと、自動車では技術の日産、販売のトヨタといわれたこと、家電では技術の日立、東芝に対して、販売の松下といわれたことなどに触れながら、「すべて営業が強い方が勝っている」とし、「営業が技術者の独りよがりを戒めることができ、顧客が本当にほしいものはこれだ、といえる強い営業マンがいることが大切。鼻の高い技術者をやりこめることができる企業が成長する」と語った。

 社員を一喝する時には、「そんなのはゴミだ!」という言葉をよく使った。取材の場でも、回答の一部にこの言葉を交えることもあった。

 

パソコンのオープン化の遅れに責任

 失敗談の数々を、山本氏自ら隠すことなく、記者に対して話してきた。

 私自身も取材の場で、なんどとなく、山本氏の失敗談を聞いている。

 たとえば、1963年の日興証券のオンライン・データ通信システムの開発プロジェクトの責任者を務めた時には、ソフトウェアのバグが多く、多額の赤字を出したことで、辞表を用意したという逸話がある。

 また、富士通がFACOM9450という独自仕様のパソコンを投入したことで、MS-DOS対応のパソコン事業に後れをとったことも自らの失敗だと認める。

 「メインフレームの世界では互換性が重要だといって、IBMと争っていたのに、パソコンの世界では正反対のスタンスをとっていた。メインフレームの互換性問題に明け暮れた結果、IBMも富士通も、パソコンの世界では共倒れ。オープン環境のパソコンに出遅れたのは私の間違い」と語っていた。

 そして、山本氏はこうも語る。

 「IT産業で正しく先を読むことは不可能だといっていい。だから大切なのは、間違った時には君子豹変(ひょうへん)してでも、すぐに手を打つことだ」。

 続けて語ったのがこの言葉だ。

 「間違った時には企業のメンツだとか、社長のメンツだとかには構っていられない。メンツなんてゴミだ!」。

 

パソコンメーカー買収の逸話も

 2004年に単独取材をした際に、山本氏は「いまだから話せること」と前置きして、PC事業において、海外の有名PCメーカーを買収する計画がかなり進んでいたことを明かしてくれた。

 「この買収によって、パソコン事業を一気に巻き返すつもりで、そのための買収資金も実際に用意した。しかし、社内を見回してみると、その買収した企業を切り盛りできる適切な人材がいなかった。そこで、この買収は断念した」というのだ。

 そして、この話にはまだ続きがある。

 「買収は断念したが、手元には資金が残っている。ではこの資金を使って、とにかく安くして、パソコンでトップシェアをとれと号令をかけた。そうしたら、本当に、現場は安売りを始めた。私の想像以上の安売りを始めたのでびっくりした。しかし、それがいまの富士通のパソコン事業の成長につながっている」。

 富士通が国内で一気にパソコンのシェアを高めたのはこの時だった。

 

2番じゃ話にならない!

情報処理学会の創立50周年記念全国大会で講演を行った山本氏

 2010年3月に、情報処理学会の創立50周年記念全国大会で講演を行った山本氏は、この直前に話題となった次世代スーパーコンピュータの予算に関する事業仕分けで、蓮舫氏が発言した「2位じゃ駄目なんでしょうか」という発言を引き合いに出しながら、「私は『戦闘力』という言葉が大切だと思っている。戦って勝つという意志がなくては駄目。『2番目でいいのか』というばかな議論もあるが、2番じゃ話にならない」と切り捨てた。

 そして、こうも語っていた。

 「日本には、完ぺき主義、現場主義、集団主義というものがあるが、これをものづくりだけに適用するのではなく、戦略面に生かしてほしい。日本は戦後の焼け野原のなかから復興した。日本人は柔(やわ)な民族ではない。基本的なものは持っているんだ、という自信をしっかりと持ってほしい」。

 最後まで骨太の経営者であった。

 なお、通夜・告別式は、近親者によってすでに執り行われており、富士通主催のお別れの会が、2012年3月9日12時~13時まで、帝国ホテル本館2階「孔雀の間」で行われる。

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