富士通山本顧問が講演、「今の富士通にも池田氏のような社員がいることを期待」

情報処理学会 創立50周年記念全国大会

 情報処理学会 創立50周年記念全国大会が、東京・本郷の東京大学本郷キャンパスで開かれ、「私の詩と真実」のセッションにおいて、情報処理技術遺産の認定式が行われるとともに、富士通の顧問である山本卓眞氏が、「先人に学ぶ」をテーマに講演。自らの人生を振り返った。情報処理学会において、山本顧問が講演をするのは、1974年に富士通の池田敏雄氏が急逝し、その代役として急きょ講演を行って以来、実に36年ぶりのことだという。小林大祐氏や岡田完二郎氏といった歴代社長、池田敏雄氏など、自らの人生において影響を受けた人物などについて触れた興味深い内容となった。同講演の内容を掲載する。

技術者になろうと決意した理由

富士通の顧問、山本卓眞氏

 世界で最初のコンピュータは、1946年のENIACとされているが、実は、そうではなく、英国の暗号解読機である。ドイツの暗号を解読したものの、それにあわせて市民を待避させると暗号を解読していることがわかってしまうので、待避させないという判断を下してまで、その秘密を守った。しかも、1980年までその秘密を公開しなかった。ENIACが世界最初のコンピュータといわれ続けた陰で、英国は秘匿し続けてきたのだ。

 私は1925年に生まれ、2歳の時に消化不良を起こし、生命については、医者がさじを投げた状態だった。母があきらめずに日本に古来伝わる「ゲンノショウコ」を用いて回復し、今日まで生きている。

 ただ発育が後れ、学校に上がる前でも自分の名前が書けない、文字が読めない状態。父親は「ついにわが家系にも知的発達の遅れた子が生まれたか」と天を仰いだほどだった。私の子供のころの夢は「銀ヤンマ」を捕まえることだった。

 その後、陸軍の幼年学校、航空士官学校に入り、満州に行った。飛行訓練を行うのに日本では空襲が激しくてできない。そのため、満州にいって飛行訓練を行った。空中戦の訓練で、プロペラやエンジンからの油で風防が汚れ、前が見えない。撃たずに降りてきたら教官に怒られたことがあった。また、訓練で米国の戦闘機に乗った際に、なかがカラっと乾いていることを感じた。なにかが違うと感じた。それが油漏れがないという技術の差だった。

 ある日、通信兵から日本の通信機を使ってくれと言われて飛び立ったが、飛行場が見える間は使えたが、見えなくなったら使えなかった。士官学校でも通信工学、機械工学は習ったので、その理由がわかった。真空管が悪いのが原因。通信兵に「お前のせいじゃない、真空管のせいだ」と慰めた。こうした経験も、戦後、「なんとかしなくてはいけない。技術者になろう」と決意した理由になっている。

 士官学校で通信工学、機械工学を学んだ経験はその後の人生に大きく生きている。防衛大学に理工系の学生が多いことは、日本の防衛のためにはいいことである。一方で、戦争中に作った第2工学部をなぜ戦後になくしてしまったのかが残念である。

 日本の海軍には、零式戦闘機という優れた戦闘機があった。技術者にとって非常に興味深いものであり、戦後、本を読んでこれを調べた。堀越二郎さんという航空技術者が生み出したものだが、「ネ堀越さん」、「ハ堀越さん」といわれるぐらい根掘り葉掘り聞く人だったという。その人でさえも、昭和7年の7試、昭和9年の9試、昭和12年の12試という3回の挑戦を経て、世界においても傑作といわれる戦闘機を作り上げた。

 ただ、零式戦闘機は整備が大変だった。一方、陸軍の一式戦闘機である隼は、整備が楽である。加藤隼戦闘隊の歌の2番で整備士をたたえる歌詞がある。寒風や酷暑のなかで整備をする様子が描かれているが、整備が容易であるというのは重要な要素であるということを感じた。


鼻の高い技術者をやりこめられる企業が成長する

 防衛技術は、その後、インターネット、CDMA、暗号技術として民間に広がり、米国はこれらの技術を民間利用して発展した。では、日本の防衛技術においてはどうか。残念ながら見るべきものがあったとはいえない。

 終戦の際に部隊長から「これからは飛行機から離れて故郷に帰れ」と命令をされ、さらに、訓示として、「これまでは死ぬことを求めてきたが、これからは地をはい、草をかみ、犬になっても、こじきになっても生き抜け。生きて祖国の再建に力を尽くせ」といわれた。これは生涯忘れられない言葉である。そして、「衣食住についてはこれまで国が支給してきたが、お前たちは自活する道を学んでいない。それを思うと哀れで涙が出る」といわれた。当時、部隊長は40歳。自分の身を考えず、国の将来のこと、部下たちのことを考えた言葉を、この歳で発していたことには驚く。

 技術と営業の経験法則というのが私にはある。1970年代に技術のユニバック、営業のIBMといわれた。また、自動車では技術の日産、販売のトヨタといわれた。家庭電器では技術の日立、東芝に対して、販売の松下といわれた。どちらが勝ったか。全部、営業が強い方が勝っている。営業が技術者の独りよがりを戒めることができ、顧客が本当にほしいものはこれだということをいえる強い営業がいることが大切。鼻の高い技術者をやりこめることができる企業が成長する。

 富士通に入り、のちに社長になる小林大祐氏が開発課長として上司になった。体が弱く、誰も社長になるとは思っていなかった。「ともかくやってみろ」が小林大祐氏の言葉。戦争中、リレー式の高射砲の弾道計算機をやったが、これが使いものにならない。いつしか、電子式のものを開発したと思い続けていた。また、電電公社に出入りしていた企業のなかで、NEC、沖電気に続いて、富士通は万年3位。悔しい思いを続けてきた。なんとか上昇したいというのが全社に共通した思いであり、そのためには新規事業に取り組まなくてはならないと考えていた。その新事業の候補が計算機と無線であった。

 1952年、朝鮮動乱のなか、東京証券取引所は手計算で処理をしていたが、これでは追いつかないということで、リレー式計算機を開発し、証券取引所に納めた。しかし、動いたがスピードが出ない。これは落第点となった。だが、これによって、天才・池田敏雄がコンピュータに目覚めた。池田氏は、遅刻はするし、昼休みをすぎても会社に戻ってこないという勤務態度は悪い社員だった。ところが、この天才ぶりを見抜き、池田氏を使ったのは小林氏だった。勤労部は怒ってクビだというが、勤労課長を説得して、使い続けた。池田氏は日本のエグゼンプト第1号の社員だったのではないだろうか。

 その結果、池田氏が作り上げたのが、絶対に誤りを出さないという高い信頼性を誇ったFACOM 128だった。池田氏は、演算回路に没頭し、優れたものを数多く生み出した。しかし、「周辺回路」にはまったく興味がない人で、これを補う人が必要だった。天才を助ける人は人は、文化系、理科系を問わず必要である。池田氏を周りが支えて、すばらしいものが完成した。東京大学のシステム導入で日立に敗れた時に、池田氏は、自分たちが作ったソフトウェアを米国のコンピュータでも動作するようにしたい、また、米国の技術者が開発したソフトを持ってきて、東大のコンピュータで動作させたいと言い出し、ここで互換性を認識するようになった。そこで、日立と提携し、アムダールとも提携した。しかし、アムダールはベンチャーであるにも関わらず、超大型コンピュータをやることが無謀だった。富士通はここでかなりの投資をした。この窓口になったのが池田氏だった。

 池田氏は囲碁をたしなみ、五段の腕前。その後、ルールを研究して6段、亡くなってから7段に昇格した。斯界(しかい)の発展に寄与した人でもあった。

 今の富士通には、池田氏のような社員がいるのかと問われれば、たぶんいるのではないかと期待している。池田さんのように際だった人は日本にはあまりいなかったのでないか。

 この時、経営を支えたのが老練の経営者である岡田完二郎氏であった。古河合名会社に入社し、その後、古河鉱業の社長を務め、67歳の時に富士通の社長に就任した。2年半ほど勉強してコンピュータの情報を集め、その結果、コンピュータに社運をかけることを決定した。その時、71歳。すごい決断であった。私が勝手に想像するに、岡田氏は、なにも悪いことはしていないにも変わらず、戦後、公職追放にあった経験があり、それが企業経営の現役に生涯こだわり続けた理由ではないのだろうか。

 戦略的経営は方向、方策、態勢の3つが必要だといわれるが、それに当てはめると、方向では、数多くの情報を集め、方策としては、コンピュータ事業には大きなリスクが伴うとして損益管理を徹底し、同時に、神戸工業から半導体技術を手に入れて、黒澤通信工業からも技術を手に入れた。そして、態勢としては、天才・池田敏雄を中心に組織を作り上げた。ある日、業績悪化を理由に技術担当役員が技術研究費を削ってはどうかと進言したが、「これが明日のための投資になる。技術研究費は削らない」といったという話が伝わった。これに社員たちが奮い立った。また、ソフト開発の人員が大量に必要であるとして、人の採用を検討したが、それでは間に合わないとして社内異動をすぐに決定し、実行した。だが、部下を取られた周りからはカンカンに怒られた(笑)。今から思えば、これが社内の構造改革につながっている。

 しかし、岡田氏は、大変な酒飲みで、「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」、「闇夜に鉄砲」ということもいわれた人ではあった(笑)。

 こうした先人たちの努力によって、富士通は大きなビジネスを成功させた。IBMからも多くのお金を取られたが、それを上回る稼ぎがあった。このあたりは、鳴戸道郎氏が「雲を掴め」、「雲の果てに」という上下2巻の小説にまとめている。


戦って勝つという意志が必要、2番じゃ話にならない

 だが、気がついてみたら、IBMは、富士通との戦いに気を取られ、富士通は、IBMとの戦いに力を注ぎ、その間、インテルとマイクロソフトにデファクトスタンダードを取られてしまった。PCがコモデティ化し、価格競争に陥り、この世界で、富士通もIBMも共倒れとなってしまった。

 いまや知的財産という新たなところで戦わなくてはならない。

 アップルのiPodは、299ドルの価格のうち、アップルの利益が75ドル。そして、73ドルが流通。半導体などに75ドル、新興国などから調達した400点の部品で60ドル、16個の主要部品に15ドル、そして、中国でのアセンブリに2ドルとなっている。これを見ただけでも米国は、日本よりもはるかに進んでいる。ものを作れといっているだけでは駄目ということを言っているようなものだ。日本の産業も心すべき問題である。製品の4分の1を利益で得るような「悪知恵」が必要である。

 インテルも、かつてDRAMの生産において、パッケージから出る放射能がエラーの原因になったとして、京セラにこれを解決させたが、この技術をインテルにだけ供給するという契約を行った。これが他社が追いつけず、インテルの発展の基礎となった。特許ではないが、こうした権益を利用することも必要である。独占禁止法の影響もあるだろうが、独禁法そのものが不完全なものであり、時代遅れであると感じる。

 日本はソフトウェアの領域で、世界で通用するものを作るという発想がなかった。海外に出る努力をしてこなかった反省がある。日本の顧客は要求が高い。そのきめ細かさに対応することに精いっぱいで、世界に向くことができなかった。ソフトウェアのアーキテクトをどう育成するかという視点がなかったことも大問題である。経営者にはこの点をしっかり意識してもらいたい。さらに、ソフトウェア出身の経営者が出てきにくいところがある。ソフトウェアは日本人に向いていないことはないと考えている。これからソフトウェアアーキテクトを育成し、世界で戦うということをやっていく価値はあるだろうと考えている。

 日本には、完ぺき主義、現場主義、集団主義というものがあるが、これをものづくりだけに適用するのではなく、戦略面に生かしてほしい。日本は戦後の焼け野原のなかから復興した。日本人は柔(やわ)な民族ではない。基本的なものは持っているという自信を持ってほしい。

 私は「戦闘力」という言葉が大切だと思っている。戦って勝つという意志がなくては駄目。「2番目でいいのか」というばかな議論もあるが、2番じゃ話にならないのだ。


(大河原 克行)

2010/3/12 09:00